小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

4000PV達成!

  いつも当ブログをご覧いただきありがとうございます。みさんのおかげで4000PV達成しました。

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  3000PVはけっこう早く達成したので、その調子で行けるのかな、と思っていたのだが、けっこうかかりました。最近はもう諦めるというか、「まあ0の日もあるよね」ということが当たり前のようになっていました。

ブログをしている理由は自分の忘備録や記録としてではある。でも、やっぱり欲が出て、たくさんの人が見に来てくれるといいな、なんて思っているのです。だから、小さな記録ではあるのですが、嬉しいです。

 スターを毎週のようにつけに来てくださっている方もいます。何もリアクションはしていませんが、内心とても喜んでいます。この場を借りてお礼させてください。

 これからもご愛顧のほどよろしくお願いします!

上半期のお題BEST3

今週のお題「2020年上半期」

 

 早いもので2020年も折り返している。年々早く感じるようになってきている気がする。年ですね~(笑)。

 さて、2020上半期は新型コロナウイルスの影響を受けまくった時期であった。それは現在も続いている。

 このような話はいつもしているので、この話題は避けたい。でも、そうするとこれと言って上半期に起きた出来事が思いつかなくなる…。まあ、自粛期間が長かったのでね。

 ということで、苦肉の策として、上半期に書いたお題を振り返ってみることにする。題して「上半期のお題BEST3」

 

①お題「二十歳」

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  年齢を重ね、味覚が変わってきているということを中心に記事を書いた。味覚の変化に影響するのが、味蕾の数。「味蕾」と「未来」をかけて、最後の落ちとした。個人的にはなかなか上手いことまとめられた、と思っている。今読み返しても、なかなか満足いっている(笑)。

 

②お題「大切な人へ」

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 大切な人を思い浮かべて、架空のラブレターを書いた。いつも心に秘めていることを思い切って文章化した。こんなところで書いていないで、本人たちに伝えてもよいとは思っている。だけど、やっぱり恥ずかしいのよね。

 

 

③お題「わたしの部屋」

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  これはよく覚えている。本棚を置くことができて嬉しかったからね~(笑)。本好きには共感してもらえる内容である、と自信を持って言える。それに、この記事には多くのスターがついて嬉しかったのも覚えているな。

 

 下半期も引き続き、お題に応えようと思っているので、もしよろしければまたのぞきに来てください。

 

プロレスとは「人間の所業」である。

プロレスとは「人間の所業」である。(byTAJIRI)

 

 今回も、元WWEスーパースターのTAJIRIの言葉から考えたことを書いてみる。前回のもののリンクを貼っておきますので、よければご一緒に読んでみてください。

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  さて、今回のTAJIRIの言葉には続きがある。

プロレスとは「人間の所業」である。なので、ハートが奇麗な人はそういう試合をするし、ハートが薄汚い人はやはりそれが試合に出てしまう。そして独自の哲学を持つ人は、試合にもその哲学が表れるのである。

  つまり、プロレスは人間の所業であるので、その人間の内面や考え方までも表現されることとなる、ということだ。それは意識的に表現されるものもあれば、無意識に表現されるものもある。これは、プロレスを長年愛してきた者としてはよくわかる。

 プロレスとは、育てゲーの側面もある。デビューした頃から何年もかけて応援し、その選手が飛躍していく瞬間を目の当たりにするのが醍醐味の一つである。その時には、長年応援してきたからこそ知り得ている、選手の内面や考え方まで思いを馳せることになる。選手の歴史を知ることで、プロレスはより楽しむことができるというわけだ。

 プロレス愛が溢れてきているが(笑)、話を教育の方へと持って行こう。

 教育も「人間の所業」である。だから、教師という人間の内面や考え方までも表現されることとなる。もちろん、意識的に表現されるものもあれば、無意識に表現されるものもある。

 ここで意識しないといけないことは、その表現されるものをメタ認知するということ。表現されているものに無頓着ではいけない。それが子どもたちの育ちにとって好い影響を与えているのならいい。そうではなく、悪影響を及ぼすことになっているのならよくない。そこは少しでも影響が和らぐように気をつけるべきであろう。

 でも、「人間の所業」であるので、全てを変えることはできない。それはそれで不自然のように思う。だけど、自覚しておかないとたちが悪い。自覚した上で、その表現されるものをどうしていくかを考えておきたい。

 自分はどんなものを表現しているのか、表現してしまっているのかということをゆっくり考えてみたいものである。

今こそ読むべき!

 新型コロナウイルスの猛威が少しずつではあるが収まってきている。もちろん、まだまだ楽観視できない。そうは言いながらも、学校は再開しつつある。コロナショックを受けた学校現場はこれからどのようになっていくのだろうか。そんなことを考えるのにぴったりな一冊が発刊された。

 この時期に雑誌ではなく、書籍という形でまとめられたのは素晴らしいことである。また、執筆陣が豪華。こんなメンツがよく集まったな、という感想を持った。

 さて、いくつもの論考を読んだ。その中から僕の目に留まったものをいくつか紹介する。

 名古屋大学准教授の内田良先生の論考から。

一斉休校によって顕在化した、学校教育の土台にある重大な機能とは、すなわち子どもが大人(教職員)に見守られているということである。

学校という場は「福祉」的な側面を多分に有している。授業をはじめとする各種活動の以前に、そもそも子どもが大人の庇護のもとで、日中を安全に過ごすことができる。

  内田先生の記述のようなことを僕も感じていた。それを言語化してくれている、と感じた。学校という場があることのありがたさというものは確かにある、ということを休校中に感じた。なくなって気づくものがあるのだよね。

 立教大学教授の中原淳先生の論考から。

緊急事態が解除されれば、オンライン授業の経験は「なかったかのように」忘れ去られるだろうか。何事もなかったかのように、大学は「数百人を集めて行う元の一斉授業」を行うのか。それは「否」であるとわたしは思う。

なぜなら、今、人々の間で最も関心が集まっているのは「コストをかけてでも、対面で、人が集い、出合うことの意味だから」だ。そこに明らかなメリットが感じられない限り、「わざわざ通わなくても、オンラインで学べばいいじゃないか」ということになる。

  先ほどの内田先生の記述のところで書いたのだが、学校という場のありがたさは確かにある。でも、だからと言って学校という場がこれまで通りの在り方でいいかは考えないといけない。「わざわざ通わなくても、オンラインで学べばいいじゃないか」という考えはこれまで以上に増えるだろう。そこで、学校として魅力的なものを提示できるようにしたい。つまり、改めて学校という場の魅力の再検討を行い、変化させるべきところは変化させないといけない、ということだ。

 まだまだ紹介したいものはあるのだが、どんどん長くなってしまうのでこの辺にしておく。是非手に取り、一読をおすすめする。

 どの論考にも共通していたことは、新型コロナウイルスにより変わった学校や授業や教師という存在を前向きに捉えようとしていること。端的に言うと、よい変化のきっかけとしようとしているということ。

 ただただショックを受け、立ちすくんでいるわけではなかった。そこからささやかながら一歩を踏み出そうとしていることが伝わってきた。そんな姿に勇気をもらった。

 僕も小さな教室からの挑戦を改めてしていきたい、と強く思った。

ポスト・コロナの学校現場⑦「コミュニケーションが生まれる」

 新型コロナウイルスが収まりつつあったが、ここに来て感染者がまた増えてきている。その原因をどう考えるかで、見方が変わるが、油断できないことには変わりないだろう。

 そんな最中、学校現場でも不安や焦りが見えている。教師の僕たちだって不安だし、焦ります。でも、教育活動はできる限り進めていきたい。それは子どもたちだって望んでいることでもある。

 だから、工夫しつつやっていかないといけない。また、学校や学年である程度の方向性は整えておかないといけない。

 そうなると、生まれるのがコミュニケーションである。新型コロナウイルスが蔓延する前より、コミュニケーションが増えているように感じている。これは良い副産物だろう。

 コミュニケーションが生まれることで、協働が生まれる機運が高まる。もちろん、そんなに簡単に協働が効果を上げるということはないのだけど。それでも、良い傾向だな、と思いながら職員室にいる。

 新型コロナウイルスという共通の課題? が生まれたことにより、コミュニケーションが生まれている。この動きを活発化させていきたい。そうすれば、多忙化の学校現場ではあるが、働きがいが高まるのではないだろうか。

 

【過去記事】

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納豆×TKG

今週のお題「納豆」

 

 納豆は好き嫌いがけっこうはっきり分かれる食べ物だろう。僕もそこまでの好物ではない。でも、決して食べられないわけではない。だから、食べる時は決まってご飯にかけて食べる。

 納豆から少し離れて、卵かけご飯の話。卵かけご飯は、一時ブームになったように好きな人が多い食べ物だろう。食べ物と言うか食べ方と言うべきなのかもしれないけど。ちなみに、僕はけっこう好きです。

 つまり、僕にとっては納豆をご飯にかけ、それが卵かけご飯のようにできたらベストということ。

 そんなのないかな、と思っていたら、そんな納豆を見つけた。

 それが「金のつぶ たまご醤油たれ」である。これは納豆も楽しめるし、卵かけご飯も楽しめる一品となっている。

 きっと、納豆が苦手な方にとっては食べやすくなる。だから、納豆を苦手にしている方にこそ手に取ってみてもらいたい。

「がんばります」の重さ

 先日、同僚の先生から「U-Tchallenge先生、○○しておいてくれない」との依頼があった。

 僕としては「そんなに難しいことでもないし、迅速に取りかかればすぐに終わるだろう」と思った。

 そして、「わかりました。明日には形にできるようにがんばります」と応えた。

 そうすると、先の同僚の先生から「いや、そんなにがんばらなくていいから、大丈夫だよ」と返ってきた。

 僕は驚いた。僕としてはそんなに強い思いで「がんばります」という言葉を使ったわけではないから。でも、同僚の先生にすると、「がんばります」は強い思いを感じられたのだろう。

 「がんばります」という言葉一つとっても、その言葉を使う者によって感じる重みが違うのだ、と改めて気づいた。もちろん、言葉を使う場面や文脈が違えば、重みもそれに伴って変わるだろう。

 こう考えると、自分や同僚の先生が使っている言葉もそうだが、子どもたちが使っている言葉だって重みがあることとなる。そこを意識しないとコミュニケーションがギクシャクすることになるかもしれない。

 「がんばります」というありふれた言葉からこんなことを考えた。

大きくなるっていうことは

 4月、1つ進級する季節。そんな季節にぴったりの絵本である。とは言いながら、紹介が夏になってしまいましたが…。

 「大きくなるっていうこと」とは、どういうことだろうか?

 絵本の中では、大きくなるっていうことは、「新しい歯が生えてくる」「あんまり泣かないようになる」「前より高い所に登れる、降りられる」「何でもかんでも食べたりしない」「シャンプーを嫌がらない」「おもしろいことがどんどん見つけられる」等と話してくれる。

 そして、最後に「自分より小さな人が多くなる」「小さな人に優しくなれる」と語りかけてくれる。子どもたちの心にも染み渡る言葉ではないだろうか?

 そして、誰もがこの1年で大きく(歳を重ねる)こととなる。僕たちが一年一年大きくなっていることには、どんな意味があるのだろうか? 僕たちが大きくなるということはどういうことだろうか?

 そんなことを考える機会を与えてくれる絵本である。

 いつでも遅くないので子どもたちと読みたい絵本である。そして、子どもたちと大きくなるっていうことを考えたいものです。

ポスト・コロナの学校現場⑥「目は口程に物を言う」

 新型コロナウイルスが猛威を奮うさなか、「新しい生活様式」なるものが提唱されるようになった。その中の一つにマスクの着用がある。それを受け、学校でもマスク着用が基本となった。教師はもちろん、子どもたちだってそうだ。

 初めの頃はマスクを着用することに抵抗を示していた。それは僕もそうだ。そんなにマスクの着用に慣れていなかった。でも、人間の適応力はすごいですね。もうマスクを着用していない方が違和感を覚えるようになりつつある。いいことなのかはわからないが。

 マスクを着用していると、表情があまり読み取れない、と感じている。笑っていても、怒っていてもそれが読みとりづらい。これはコミュニケーションを取る上でけっこう困る。

 そうなると注目するところが「目」である。表情が変わると「目」に変化があるからだ。例えば、笑顔になると目尻が下がり、細い目になる。それが自然な笑顔だ。だから、笑っているように感じても目に変化がない場合は、愛想笑いの確率が高い。

 つまり、「目は口程に物を言う」のである。だから、子どもたちや同僚とコミュニケーションを図る時には、意識的に目を見るようにしている。そこで、読み取るようにしている。

 でも、目を見て目が合うと何だか照れくさくなっちゃうんだけれども(笑)。

 

【過去記事】

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箱推し

お題「#応援しているチーム

 

 まだまだ新型コロナウイルスの影響はある。しかし、少しずつではあるがスポーツの試合が再開となってきている。野球にサッカー等。現地で観ることはできないが、テレビ等を通して見ることができるようになってきている。そんな状況になってきて嬉しく感じている。

 さて、今回は応援しているチームがお題。野球・サッカーでそれぞれひいきのチームはある。でも、今回はそれらではなく、僕の大好きなプロレスについて書いてみる。

 プロレスファンとして生きて、早15年ぐらいだろうか。自分でもけっこう長くプロレスファンでいるのだ、と感じている。

 プロレスの入りは、アメリカのWWEだった。そこから、全日本プロレス新日本プロレス、DRAGONGATEを主にしつつ、見れるものはいろいろと追いかけた。最近では、DRAGONGATEと新日本プロレスがメインになっているかな。

 好きな団体はないわけではないが、プロレス全体を応援している感覚でいる。俗に言う箱推しの形。プロレスってすごく面白いのに、どうして周りのみんなは見ていないのだろう、とよく思っていた。

 最近では、新日本プロレスを中心にし、プロレス熱が高まっている。だから、プロレスファンも増えている。だけど、残念ながら僕の周りでは耳にしない…。まあ、だからと言って、饒舌に語り合いたいわけでもないのだけど(笑)。

 スイーツ真壁でおなじみの真壁刀義がプロレスとはについて以下のように語っている。

単純明快なことで盛り上がったり、裏切りがあったり、反則があったり、卑怯にも見えるような闘いのなかで仲間を守ったり、自分が盾になって頑張るとか、いろいろな状況がある。そういうことって、小説や映画でも味わえるかもしれないけど、現実として生身の人間が眼前でそれをやっているところを見ることができるのは、やっぱりプロレスだけのものだ。

 プロレスの魅力について、わかりやすくまとまっているように思う。

 会場で観られるようにもなってきているし、動画配信という形でも見られるようになっている。是非、一度その現実を感じてもらいたい。

だから、俺はプロレスで夢を追う!

だから、俺はプロレスで夢を追う!

  • 作者:真壁刀義
  • 発売日: 2016/02/26
  • メディア: 単行本
 

ささやかな幸福を得るには

 本書では、家族論、地域共同体論、教育論、コミュニケーション論、師弟論等の「人と人の結びつき」の在り方について論じられている。

 著者は、「おとなになりましょう」、「常識的に考えましょう」、「古いものをやたら捨てずに、使えるものは使い延ばしましょう」、「若い人の成長を支援しましょう」といった「当たり前」のことを述べているだけ、と語る。

 共同体論なんて使い古された話題ではある。だけど、「共同体なんて、今さら戻りたくない。再構築は難しい。」というような声が聞こえてきそうだ。

 確かに、今さら閉ざされた共同体を再構築したいかというと、そうでもない。でも、ある程度の共同体―つながり―を構築できないと生きづらくなってきている。いや、もちろん一人でも、家族だけでも生きていける程、豊かになっている。

 しかし、それだけでは不十分でないかと考えている。常に共同体の中でつながっている必要はないが、いつでもつながることができる状況にいる者が幸せに生きているように思っている。そのようにつながれるものを数多く持っている者が幸せに生きているように思っている。

 そんな、ささやかな幸福を掴むことができる力を保証するために共同体の存在意義があるのではないかと考えさせられる。

 内田節を味わうためには、本書は最適だと思う。スラスラと読めると思う。さらに、「目から鱗が落ちる」という感覚を味わうこともできると思う。著者も、「本書はかなり面白いです。非常に、と申し上げてよいぐらいです。」と自信満々に語っている(笑)。

 まあ、騙されたと思って、是非手に取ってもらいたい。

街場の読書論 (潮新書)

街場の読書論 (潮新書)

  • 作者:内田 樹
  • 発売日: 2018/09/05
  • メディア: 新書
 

 

ポスト・コロナの学校現場⑤「志向が如実に現れる」

 教室の風景は、そこにいる教師の心象風景の現れである、と言うことができる。それぐらい、教師がいる教室、そこにいる子どもたちに影響を与える。このことは教師なら理解していることである。だからこそ、なるべく善い影響を与えることができるように心がけている。

 さて、学校が再開されてからは、この教師の影響力について考えられているだろうか。

 新型コロナウイルスの影響で、学校再開となったものの、今まで通りの学校生活を送ることが難しい場面もある。例えば、授業の中でのグループ活動、給食時の子どもの動き、登下校や休憩時間の過ごし方等。どこでクラスターが起こるかわからない。だから、予防し切れるということはないが、予防できるように意識はしている。

 このような状況下で、教師一人ひとりの志向が如実に現れてきているように感じている。その志向は大ざっぱに二つに分けることができる。

 一つ、予防を意識しつつも何とか子どもたち同士の活動を保障しようとする志向。これは本当に難しい。でも、工夫次第では子どもたち同士の活動を組むことはできる。その時には、子どもたちや周りへのある程度の説明は必要になる。そして、ある程度の合意なるものを得とく必要もある。繰り返しになるが、難しいことだがやれないわけではない。

 二つ、予防をできる限り徹底することができるようにする志向。簡単に言うと、管理的に指導するということ。「管理的に」と聞くと、すぐに「良くない」と思う方もいるように感じている。でも、決して悪いことではない。現在の状況では管理的になるのも致し方ないように思う。

 ここで書いた二つの志向は、もちろん学校や地域からの要望が大きいからそうなっているというのもあるだろう。だけど、教師一人ひとりの志向が大きく影響していることは間違いないだろう。

 どちらの志向を選ぶというか、ある場面ではこっちの志向を強くする、また別の場面ではあっちの志向を強くする。このような姿勢が必要なのではないだろうか。だから、どちらかだけに傾いていないか、安易にどちらかを選んでいないか、というのを考えたい。

 

【過去記事】

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最近、冷凍庫の中には

今週のお題「私の好きなアイス」

 

 アイスのことって毎年お題として出るのかな? たぶん、去年もお題としてアイスについて書いた。探してみると、やっぱりあった。

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  同じことを書いても仕方がないので、最近のことで書いてみよう。冷凍庫に最近よくあるアイスは二つある。

 一つ、赤城乳業の「ガツン、とみかん」。みかん味のアイスキャンディーにみかんの果肉がいっぱい詰められている。暑くなってくるとさっぱりした物を食べたくなる。そんな時、アイスクリームではさっぱりとはならない。そうなると、「ガツン、とみかん」の出番となる。パイン等の味もあるが、みかんの方が好きかな。
 二つ、赤城乳業の「MILCREA 宇治抹茶」。抹茶味のアイスキャンディー。回りが抹茶で、中にはミルクアイスが詰められている。一つで二度美味しい一品である。たまたま買ってみたら、「なに、これおいしい!」となった。抹茶味だけでなく、チョコレート・ストロベリー味とあるが、抹茶味のが一番かな。

  書いていて気づいたのだが、どちらも赤城乳業のアイスだったんだ。あんまりどこが作っているものかというのは意識していなかったな(笑)。

 さて、今日も暑いので食べてみようかな。

国語の学びのお供に

 なぜだか、僕の中での「国語熱」なるものが高まっている。国語について学ばなければ、という思いがほとばしっている。

 ということで、積ん読状態になっている「子どもと創る『国語の授業』」を引っ張り出してきた。そして、特集で気になるものをピックアップした。それを、次々と読んでいった。

 今回はその中からいくつかを紹介することにする。

 

№44「思考力・表現力をのばすノート指導」

 ノート指導となると、字を丁寧に書くこと、わかりやすくノートにまとめることがクローズアップされがちのように感じる。これらは必要ない、とは思わない。ただ、ここだけに留まっていてはいけない、と思う。なぜなら、ノートは子どもたちの思考力や表現力を向上させる場、力を発揮させる場としたいから。

 教科書にも最近はノートの取り方の例が示されている。教師はこの例から授業の在り方を読み解かないといけないのではないだろうか。子どもたちのノートを変えたいなら、結局は教師自身の授業を変えないといけないということだろう。

 

№55「『いい授業』の条件」

 「いい授業の条件は?」と聞かれると、きっといくつもの答えが返ってくるだろう。掲載されている論考もそうなっていた。もちろん、ここから共通することを拾い上げることはできる。でも、その前に考えないといけないことがあるのではないだろうか。

 それは、自分自身が思う「『いい授業』の条件」である。まずは自分で考えたい。どのような条件が考えられるだろうか。それを持った上で掲載されている論考等も参考にし、実践を通して検証していけばよい。とりあえず、僕の思ういい授業の条件を考えよう。

子どもと創る「国語の授業」2016年 No.55

子どもと創る「国語の授業」2016年 No.55

  • 発売日: 2017/02/20
  • メディア: 単行本
 

 

№61「子どもの思考が働く『学習課題』」

 授業で「めあて」を示すということは、教育界のトレンド? のように思う。全国学力学習調査でも「めあてが示されているか」のような質問項目もあるぐらい。各市町村の教育委員会の指導でもよく言われていることだろう。めあてが示されているかどうかというのは見えやすいので、指導する方も評価しやすいのだろう。

 でも、めあてを示したからと言って子どもたちにとってのめあてとはなっていない、と感じることが多い。めあてを示すことはよいことだが、その質も考えていかないといけないだろう。

  

 いかがだっただろうか。国語の学びのお供に是非とも近くに置いてみてください。

ポスト・コロナの学校現場④「考える時間が減る」

  新型コロナウイルスの影響で、長い間臨時休校であった。そのため、学習進度が大幅に遅れている。それをどのようにしていくか、ということについてかなり考えている。

 ということで、普段よりも速いペースで学習が進められている。これは仕方のないところである、と思っている。でも、学習を終わらせるためだけに、速いペースにしているのは果たしてどうなのか、とも思っている。

 ある授業に入っていて、以下のような場面に遭遇した。

 問題が出される。その解き方・考え方を教科書を参考にしながら確認していく。時には子どもたちに発表させる。でも、それはたぶん先行学習をして理解できている子たちなのだろう。

 そうこうしているうちに、まとめに入る。教科書に書かれているまとめを読んでまとめとする。時には何回も声に出す、ノートに写す等の活動を入れる。

 そして、本時の学習を終えたということで、習熟や別の学習に移っていく。

 かなりスピーディーに学習が進められることとなる。そうこうしていると学習進度もずいぶんと標準に近づいてきた。しかし、ここで得るものはあるが、もちろん無くしているものもある。

 それが「子どもたちが考える時間」である。子どもたちが考え、それを表出する時間が減っている。これは由々しき事態ではないだろうか。こんな時でも「考える時間」は確保していきたい。これは理想論なのだろうか。理想だとしても、少しでもその理想に近づけられるように考えたい。

 教師だって考える時間を確保し、創造していかないといけないのではないだろうか。

 

【過去記事】

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