小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

ポスト・コロナの学校現場⑭「思考停止に陥る」

 新しい生活様式なるものが謳われている。そんな新しい生活様式に初めは窮屈さを感じていたが、次第に慣れてきているように感じている。

 学校現場も、新しい生活様式に則り、新しい教育活動なるものを模索しているところである。授業は教師の領域として捉えられているので、そこは創意工夫しながら行っているつもりである。

 問題は行事。二学期となると大きな行事が多い。運動会、修学旅行、学習発表会、遠足、社会見学等々。これらは、学校だけでなく保護者や地域の意向が大きく影響するものである。授業だってそうなのだけど、あまり影響はしないのが実際のところであろう。

 さて、上記したような行事を例年通り行うのは難しい状況ではあるが、何とか実施したい。このような二つの考えの間で揺れているというのが多くの学校現場で見られているのではないだろうか。

 「実施する」「実施しない」ということを侃々諤々と議論すればよい。ただ、ここで気をつけないといけないのは「思考停止に陥る」ということ。

 「実施する」「実施しない」ということだけに囚われていると大事なことが抜け落ちてしまう。それは、「何のためにその行事があるのか」ということ。それぞれにそれなりの意味を見出せるであろう。それが、現在の社会状況でも実施する価値があるのか、それともそこまでないのかということ。そこを吟味しないといけないのではないだろうか。だから、「実施する」「実施しない」だけを考えているのなら、「思考停止に陥っている」ことになる。

 今回は行事を例に挙げたが、これは授業でも当てはまるし、何なら教育活動全体に当てはまることであろう。現在の社会状況では制約は多く、判断は難しい。だけど、「思考停止に陥る」ことは避けないといけない。自分の言動は「思考停止につながっていないか」ということに敏感でありたい。

 

【過去記事】

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書くことは考えること

今週のお題「読書感想文」

 

 読書感想文。昔も今も夏休みの宿題の定番である。自分が読書感想文を書いた経験もあるし、教師として子どもたちが書いているのを見た経験もある。

 さて、ここで今一度考えてみることにする。それは、「なぜ、読書感想文を書くのか?」ということ。「読書感想文を書くといいことがあるの?」ということ。

 「書くことは考えること」という言葉を聞いたことはないでしょうか。書くことは考えるということになる、ということを表した言葉です。

 読書感想文となると、読んだ本についての感想を書くこととなります。しかし、ここでの書くということは、単に「読んだ感想を書く」だけではありません。

 書きながら読んだ本のことを何度も考え、考え直す。このようなプロセスを大切にするのです。そうすることで、読んだ本についての自分の問いや考えを育てることになります。だからこそ、書くことには価値があるのです。でも、だからこそ難しいことでもある。

 だから、子どもたちが読んだ本の感想を書くだけに留まらないように気をつけないといけない。読んでいて感想を持つということは、それなりに読むと自ずと持つことができます。しかし、自分の問いや考えを持つことは容易ではありません。自分の問いや考えを持つには、読みながら気になった記述等をメモしておく必要がある。なぜなら、すぐに問いや考えは忘れ去ってしまうから。

 現在の僕の読書感想文についての考えをまとめてみた。これは、子どもたちだけでなく自分にも言い聞かせないといけないものだ、と思っている。

 「書くことは考えること」という言葉を信じ、これからも書くことを続けていくこととしよう。

「両者リングアウト」と「反則裁定」にこそ、プロレスというジャンルがこの世に存在している本来の意義が秘められている

「両者リングアウト」と「反則裁定」にこそ、プロレスというジャンルがこの世に存在している本来の意義が秘められている(byTAJIRI)

 

 このTAJIRIの言葉に、僕はプロレスファンとして全面的に賛成する。多くのプロレスファンにとっても納得できるものである。しかし、プロレスをあまり知らない者からすると、こういうところがプロレスを好きになれない大きな理由になっている気もしている。

 最近の試合ではあまり見られなくなった「両者リングアウト」。昔では(今でも)決着をぼやかすための手の一つとしてよく採用されていた。

 チャンピオンシップで「両者リングアウト」となる。そうすると、王座の移動はないことが多い。王座は移動しないし、どちらも負けたわけではないから格を下げるわけでもない。つまり、誰も傷つかないのである。

 誰も傷つかないわけではない。もしかすると、傷ついていたのはプロレスファンなのかもしれない。それを乗り越え? プロレスファンはファンであり続けるのである。

 でも、だからと言ってプロレスファンも不透明な決着を望んでいるわけではない。スッキリとした思いを持つ試合を見たい。だけど、そうならない時がある。プロレスファンはそれぞれなりにその状況を飲み込み、また会場に足を運ぶのである。

 つまり、自分ではどうしようもない理不尽なことへ対応するということ。だから、プロレスファンはプロレスファンであり続けることで、理不尽なことへの対応する力を蓄えているのである。そして、このような理不尽なことへ対応するという経験を得られる意義が、プロレスに秘められているのではないだろうか。

 世の中全体的には、黒か白かというようにハッキリとした立場表明が好まれる。それは、教育界も同じ。黒か白かを求められることがある。それは教師自身が望んでそうしているところもある。だけど、黒か白かで表せない灰色だってよくある。それを受容できないと、正直に言って教育なんていう営みはできないのだろう、と感じている。

 「両者リングアウト」と「反則裁定」というものがあるプロレスは、今日のせかいを世界を渡り歩くヒントを与えてくれる。そんなことをTAJIRIの言葉から考えた。

 今回は「反則裁定」については触れられなかった。「反則裁定」についてもまたどこかで。

学習集団を創る

 定期購読している「授業づくりネットワーク」の新刊を読んだ。今回のテーマは「学級崩壊」について。

 学級崩壊という言葉は市民権をすでに得ている。教育界だけで使われている言葉ではない。そして、最近では学級崩壊という言葉を耳にすることが減ってきている。打からと言って、学級崩壊がなくなっているということではない。それだけ、センセーショナルな出来事ではなくなったということだ。

 学級崩壊では、学級経営の課題だけでなく、授業の課題もある。でも、どちらかと言うと、学級経営についての課題とその対応について書かれている論文が多いように感じた。

 その中で目を惹いたのは、QUでおなじみの河村茂雄先生の論考。

 河村先生は、「主体的・対話的で深い学び」を通じて「資質・能力」を育てるには、学級に「安定度」と「活性度」を統合することが必要である、と述べている。

 学級に「安定度」と「活性度」が統合された状態の学級こそが「学級集団」と呼べる。学級内の「活性度」を高めようとするなら、子どもたちの「多様性」を認め、また親和的・建設的な行動をとることができるようにしていかないといけない。これはかなり難しいことでもある。特に子どもたちの「多様性」を前提にして、どのようにして学級の中で親和的・建設的な雰囲気をつくっていくのか、ということが。でも、ここから目を背けてはいけないだろう。

  河村先生は力強く以下のように述べている。

これからの時代は、子ども同士が学び合う機能が喪失した状態の学級集団は、学級崩壊と考えていくべきだ、と思います。「学習集団不成立型」の学級崩壊です。

 このように考えると、「安定度」だけを求めるような学級経営や授業をしていてはいけない。もちろん、「安定度」がないと「活性度」を生み出すことはできない。だから、大切ではないわけではなく、「安定度」の先を見据えないといけないということ。これは多くの論者が述べていることともつながることである。

 「安定度」と「活性度」の統合、学級内の多様性、といったことがこれからの学級経営を考える上でのキーワードになるのではないだろうか。このキーワードを持ちながら、考えを続けたい。

授業づくりネットワークNo.36―学級崩壊を問う! (授業づくりネットワーク No. 36)

授業づくりネットワークNo.36―学級崩壊を問う! (授業づくりネットワーク No. 36)

  • 発売日: 2020/08/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

ポスト・コロナの学校現場⑬「夏休みの意味」

 今年度は、夏休みが短縮されている自治体が多いのではないでしょうか。御多聞に漏れず、僕が働いている自治体でもそのようになっています。

 そんなことを愚痴っぽく書いた記事が過去記事にありますので、よければご覧ください。

 休めないというのもあるのだけど、夏休みの意味を再確認している日々である。なぜなら、暑すぎるから。とにかく暑いのである。「こんなに夏って暑かったかしら」と毎年言っている気がする。そして、毎年のように夏に暑さを感じる度合いが増している気もしている。

 こんな暑い中、今はマスクをしている。こんなこと初体験なので、こんなにも暑くなるとは知らなかった。もちろん、予想はしていたのだが、かなり上回ってきている。子どもたちは、そんな状況で登校してくる。しかも重い荷物を持って。

 熱中症が出ていないけど、それも時間の問題のように思う。熱中症とまではいかなくとも気分が優れないということはあるだろう。本当に危険である。

 だから、夏休みがあるのだ。こんな暑い中はダメだよ、と。夏休みがあることで安全が守られているということだ。もちろん、夏休みが長ければ、交通事故や水の事故等、守らないといけないものが他に出てくるのだけど。

 今年の夏を感じて、夏休みの意味を再確認した。愚痴だけでなく、本当に夏休みを大事にしてもらいたい、と思った次第である。

 

【過去記事】

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僕の暑さ対策

今週のお題「暑すぎる」

 

 毎年言っているような気がするのだけど、「夏ってこんなに暑かったっけ」ということ。いやー、何だか年々暑くなってきているのではないか、と感じている。データ的にはどうかわからないけど、肌感覚としては確実に地球温暖化が進んでいる。

 さて、この暑さをどのようにして乗り切っているのかということを書いてみる。主に二つある。

 一つは、使える機器を使うということ。クーラー、扇風機。やせ我慢しても何も得にならない。悪びれもなくというか躊躇なく使えるものは使っている。というか、使わないともうやってなれない…。

 二つは、とにかく外に出ないということ。必要最低限しか外に出ないようにする。日差しは容赦なく襲ってくるから。外に出ない限り、一定の温度の空間で過ごすことができる。今年は、新型コロナウイルスの影響で外出しにくい状況である。それも大きく影響しているが、暑さをしのぐという意味ではプラスの要素となっている。

 以上が、僕の暑さ対策です。まあ、別に何一つおもしろいところはなかっただろう。暑さ対策におもしろさを求めなくてもいいのだけど。

自分でやった方が早い病を治すために

 最近、「チーム学校」ということをよく耳にするようになりました。平成27年12月21日中央審議会の「チームとしての学校の在り方と 今後の改善方策について(答申)」が出されたことが大きく影響している。

 答申では「これからの学校が教育課程の改善等を実現し、複雑化・多様化した課題を解決していくためには、学校の組織としての在り方や、学校の組織文化に基づく業務の在り方などを見直し、『チームとしての学校』を作り上げていくことが大切である。」と述べられている。

 僕はこの答申の方向性におおむね賛成している。個人の力でできることには限りがある。だから、教師がチームとして教育活動を行っていく。そうすると、一人では成し遂げられなかったことを成し遂げることができるのではないか、と期待している。

 だけど、学校現場はなかなかチームになれない。もっと言うと、教師はチームになれない。そんな思いや考え等を論考としてまとめたものもあるので、よければご覧ください。

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  特に小学校は、チームになれてないように感じている。なぜなら、小学校の教員は、個人の力が試される世界だから。どんな仕事も学級担任一人でこなし、オリジナリティのある実践を開発するようなスペシャリストも数多くいます。そんな業界に身を置いていたこともあって、僕も小学校教員になってすぐの頃は自分のスキルをどう伸ばして、「いかに個人の成果をあげるか」ばかりを考えていました。

 だけど、上記したようにそれでは善くないのではないだろうか、と考えるようになった。また、一人だけの力では限界を感じることも増えました。

 小学校の教員がチームになるためには、まず一人でこなしている仕事量や一人でできると思っているマインドをほぐしていく必要がある、と感じている。

 このような課題意識を持っている時に出会ったのが、今回紹介する「自分でやった方が早い病」という本。題名を見た時に、「これは読まないといけない」と感じたほどだ。

 少しになるが気になった箇所を引用してみる。

自分でやった方が早い病を克服する、ということは、「自分の力だけで自分だけが成功する」のではなく「みんなの力でみんなで幸せになる」ということなのです。

多くの人が「任せる」の意味を勘違いしています。だからこそ、人に「任せる」ことができずに「自分でやった方が早い病」にかかってしまうのです。

①「任せる」は失敗が前提

②「任せる」は、「丸投げ」ではない

③他人に任せても楽にはならない

  「自分の力だけで自分だけが成功する」のではなく「みんなの力でみんなで幸せになる」というのは、「チーム学校」を考えていく上では大切な視点なのではないだろうか。

 もちろん、これからも教師一人ひとりの力量を上げていくということは大切になる。でも、一人だけの力で得られる成功だけでは不充分だろう。それだけでなく、みんなでささやかな成功を手にし幸せになる、ということを考えないといけないだろう。

 そうは言いながらも、なかなか「自分でやった方が早い病」を治すのには時間がかかるだろう。まずは、「自分でやった方が早い病」にかかっていることを自覚したい。自覚症状がなければ治すこともできないから。

 この本を読んで、まずは自覚しましょう。気づきがあると、きっと変わることができるだろう。そして、みんなでささやかな幸せをつかみましょう。

自分でやった方が早い病 (星海社新書)

自分でやった方が早い病 (星海社新書)

  • 作者:小倉 広
  • 発売日: 2012/05/25
  • メディア: 新書
 

ポスト・コロナの学校現場⑫「オンライン授業をやってみた」

 オンライン授業をやってみた、と言いながら、別に僕が指導者ではない。僕は受講する側であった。夏季研修等、オンラインですることにもなってきている。その一環でオンライン授業をやってみることとなった。厳密に言うと、オンライン講義・研修かな?

 また、オンライン授業と言いながらも双方向のやり取りができるわけではない。いわゆる「オンデマンド型」のオンライン授業。配信されているものを、いつでも視聴することができるという形。

 せっかくなので、やってみた感想というか気づきのようなものを書き留めておく。

①いつでも、どこでもできる

 本当にいつでも視聴することができる。さすがに、どこでもというわけにはいかず学校で視聴した(仕組み的にはどこでも可能)。これはやっぱり便利だな、と感じた。

②自分のペースで進められる

 講義を聞いていて、気になるところはメモを取る。そうしていると、次の話を聞き逃すこともある。オンライン授業だと、それがなくなる。止めることも可能だから。

③主体的に取り組むことができる

 一人で視聴することができるので、周りを気にすることはない。だから、主体的に取り組むことができる。僕の場合は独り言をガンガン言いながら視聴した(笑)。「なるほど」「本当にそうかな?」等々。普段だと心の中で言っていることを出せるというのは楽しかった(笑)。

④個々に預けられる

 一人で視聴できるということは、周りに同じことをしている者がいないということだ。そうすると、③でも述べたようにプレッシャーが感じにくい。そうなると、個々人の取り組み具合は、その者が決められるし、決めないといけない。主体的になれもするし、流すことだってできる。まあ、学びというものは本来こういうことのように思うが。

 以上が感想というか気づきを書いてみた。もちろん、メリット・デメリットどちらもある。ここまで考えてみると、自分が指導者になると、どうするのかということも考えてみたい、と思う。

 差し迫らないと考えないとは思うけど…。でも、いずれそういう日が来るのかな~。

 

【過去記事】

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怖いのは母親

今週のお題「怖い話」

 

 お題で求めているような、暑さを吹っ飛ばすような「怖い話」ではないので、あしからず。

 母親って怖くないですか? それは大人になった今でも感じています。大人になったので、面と向かって苦言を呈されることは減った。でも、怖い存在ではある。

 父親を怖い、と思ったことはほとんどない。まあ、母親が怖くて、父親も怖いでは逃げ場が無くなってしまうから、ありがたかったのだけど。

 でも、父親に申し訳ないな、と思っていたことがある。母親は、僕を叱る。叱っている内に、いやその前からイライラしてくるのだろう。それなりに、それを僕に吐き出す。だけど、それではだいたい収まらない。そこで、次に矛先が向く相手は父親。そして、だいたいが、僕への時よりも、数倍になり父親に向かっていく。

 本当に申し訳なかったし、今では不憫だな、とさえ思っている。でも、それでそれなりに家庭が円満というか、上手く回っていたのでよかったのだろう(笑)。

 どうして、母親は怖いのだろうか? ちょっと考えてみる。

 たぶん、僕(子ども)のことが心配だったのだろう。それは僕が頼りないというのもあったと思うけど。でも、すごくしっかりしている、と思われていたとしても心配されているだろう。心配しているからこそ、思いが強くなるのだろう。そして、怖い存在にもなるのではないだろうか。決して父親が心配せず、僕に心を向けてくれていないというわけではないけど、母親と比べるとそこまでではなかったのだろう。それだけ、母親の心配度合いというか思い入れが強いのだろう。

 大人になった僕としてはこのように考えている。まあ、ありがたいことだよな、と大人になった僕としては思っている。

言葉が言動に影響を与える?

 最近、気になることがあった。それは、「U-Tchallenge先生もしめてやってください」「ちょっとしめていかないといけないと思っています」という言葉を聞いたこと。僕はどちらにも、微笑しながら返事にもならないような声を出すだけでした。

 この言葉の意味というものは何となく理解できているつもり。子どもたちを厳しく指導する、子どもたちの様子をよく見ておくという意味合いだろう。それはわかっている。
 わからないのは、どうしてこのような言い回しで表現するのか、ということ。厳しく指導する、子どもたちの様子をよく見るというのなら、このように表現すればいいのではないだろうか。いちいち「しめる」なんて言葉を使わなくたっていい。
 いや、そこまで考えて言葉を発しているわけではないのかもしれない。何となくこの言葉を使う方が伝わりやすい、と思ったのかもしれない。もしかすると、砕けた表現をしやすい相手だったのかもしれない。まあ、これらはあくまでも推測なのだけども。
 それなら別にいいのだけど、このような言葉を使っていると、普段の言動にこのような言葉を使う時に抱いている思いが漏れ出てしまわないだろうか。もちろん、子どもたちや保護者の前で、あからさまな言葉は使わないだろうけど。
 いや、でも使わなくとも漏れ出てしまうものがあり、それが伝わってしまう気がする。大人はそんなこと気にならないかもしれないが、子どもたちは敏感である。だから、教師が自分のことや自分たちのことを、どう思っているのかを敏感にキャッチする。それがよい方向に向かえばいいのだが、例に出した言葉からはよい方向に向かいそうにない。だから、僕は気になったのだ。
 人の振り見て我が振り直せ、という言葉があるように、自分の言動を見直してみたい。もちろん、同僚の言動もフィードバックできるところはしていきたい。

温かいもの

  新潮文庫の100冊として紹介されていたので手にした。

 副題に「教室で出会った」とある。教科書に掲載されている作品や教室で過ごしている年代が主人公の作品で構成されている。

 だから、全体を通して根底にあるのは「温かいもの」であるように感じた。その「温かいもの」は、物事を全て解決してくれるものではない。問題は問題のまま残っているけども、その「温かいもの」があるから前を向けるというようなもの。

 また、その「温かいもの」は誰にでも一つや二つは持ち合わせている。ただそれが色あせてしまい、それを忘れてしまうことはあるのだけど。これを一般的には「思い出」と呼ぶのかもしれない。

 そんな「温かいもの」を一つでも二つでも子どもたちに届けたい。読みながら、こんな思いを強く抱いた。

 誰にでもある「温かいもの」について思い出させてくれる作品となっている。だから、どんな人にでもおすすめできる作品でもある。あなたの「温かいもの」もきっと思い出させてくれるはずですよ。

カレーライス 教室で出会った重松清 (新潮文庫)

カレーライス 教室で出会った重松清 (新潮文庫)

  • 作者:重松 清
  • 発売日: 2020/06/24
  • メディア: 文庫
 

 

ポスト・コロナの学校現場⑪「リフレッシュのない日々」

 ようやく長い一学期が終わり、全国的にも夏休み入っているのではないでしょうか。三月初めの休校期間から考えると、本当に長い時間でした。

 さて、夏休みだ、と感じているところではありますが、すぐに二学期が始まります。きっと多くの自治体では夏休み期間を減らし、学習時間の確保するようにしているのではないでしょうか。僕の自治体もそうです…。

 まあ、仕方のないことなのかもしれない、と自分を納得はさせています。でも、やっぱりもう少し休みがほしいのが正直なところです…。

 大人である教師がそうであるなら、子どもたちだってきっとこのような思いを抱いているだろう。子どもたちにとっては羽を伸ばせる夏休み。それができない夏休みになってしまっている。

 リフレッシュのない日々を過ごし、二学期に突入することとなる。だから、二学期が始まったとしても、ボチボチ行きたいものだ。無理して今までのものを取り戻そうなんてしたくない。

 お互いにリフレッシュのない日々を、それなりに過ごすことができている、ということは意識しておきたい。こういうことを意識しているかどうかで、教育活動の機能度が変わってくるのではないか、とさえ感じている。

 

【過去記事】

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夏うたBEST5

今週のお題「夏うた」

 

①ゆず「夏色」

 夏はノリのよい季節のイメージ。それにぴったりの一曲。ゆずが好きというのも大きいが、夏の曲で初めに思いついた。みんなで盛り上がることのできる一曲。
 
②TUBE「あー夏休み」
 これは夏の定番の一曲だろう。夏休みに入り、夏本番ということが伝わってくる。そして、その夏を満喫してやろう、という気持ちもビンビンに伝わってくる。今年は夏休みが縮小傾向でさみしい限りだ…。
 
 新しい夏の定番の一曲になっているのではないだろうか。PVでタオルを頭の上で回しながらノリノリで歌っている。それを真似して、カラオケで盛り上がりやすい。夏らしく開放的な気持ちになるにはぴったりである。
 
RIP SLYME「楽園ベイビー」
 確か昔夏によく聴いていた一曲。女性より男性の方が共感できるというか、「わかるな」と思いながら聴くことのできる一曲だと思っている。
 
 この曲は先程紹介した「楽園ベイビー」と似たような時期によく聴いていたように記憶している。これも、男性だと共感できる一曲だろう。夏と言えば「ORANGE RANGE」ということが過言ではないぐらい、流行っていましたよね。
 
 今年はなかなか外に出て、夏を満喫することができない。だから、夏うたでも聴いて、せめても夏気分を味わいたい。

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植物を愛でる

 教育者として成長するために、修養として「植物を育てるとよい」と聞いたことはありませんか。何かの本か論文かで、目にしたことがあるように記憶している。でも、植物を育てるなんて…、と思い、植物を育てることもなく時間を過ごしていた。

 ひょんなことから、植物を育てるということとなった。植物を育てている間に、前述した言葉を思い出したのだ。

 植物は自ら何かを発してくるようには見えにくい。しかし、水をやる。肥料をまく、愛でる等していると何かしら応えてくれる。これらを怠ると、すぐに枯れてしまう。

 つまり、こちらは関心を向け、何かしらの働きかけをする。その見返りというわけではないが、花が咲く、実がなる等、何かしら得るものがある。

 このようなことが、教育という営みに通ずるものがあるのだろう。だから、「植物を育てるとよい」ということなのだ。

 このようなことを確認できた。植物を育てるということは、確かに教師にとって意義のあることだ。

 ということで、今日も植物を愛でることにしよう。

未来のチームを考える

 新型コロナウイルスの影響で、リモートワークやオンラインでのやり取りが盛んになっている。そんな状況になる前から、リモートワークやオンラインでのやり取りについて取り入れているのが「サイボウズ株式会社」。その中の「サイボウズ式」の編集長が著者の一冊。

 サイボウズは、かなり自由度の高い働き方を採用している。その中で、どのようにチームを作っていくのか、どのように働くのかの考えや方法論を提示してくれている。その根底にあるのは「自立」ということ。

 ここからはそれがわかる記述を引用してみる。

サイボウズ式を運営してきて思うことがあります。それはチームを考えるうえで、「そもそもあなた自身は、どんな働き方や生き方をしたいの?」と、問われる場面が多くなってきたということです。今の時代は誰にも当てはまる働き方や生き方という、たったひとつの答えはなくなりました。会社でガマンして働けば道が開けるわけではありませんし、簡単にハシゴを外されることもあります。会社に依存せず、各人が本当に手に入れたい働き方や生き方を自分で決めること、すなわち「個人の自立」が求められているのです。

これまでの昭和的な働き方は、会社への滅私奉公によって成立していました。ありていに言うと、会社に人生を捧げることで、会社が従業員の人生を保証してくれるものでした。それを担保していたのが、年功序列や終身雇用といった仕組みです。ですが、昭和的な働き方はもはや現実的ではないことを、誰もが肌感覚としてわかっています。変化が激しい現代において、ひとつの会社が自分の人生を保証してくれると考えること自体、現実的ではありません。そういった意味では、会社に寄りかかる人生は非常にリスキーで、個々人の「自立」が求められる時代になっています。

 僕を含む教師は「自立」しているとは言い難い。教師一人ひとりに裁量があり、仕事を進めている。一見すると自立しているように見える。でも、僕はそうではない、と思う。

 働き方がいまだに滅私奉公のようなところが多くあるし、「周りの教師がやっているから」という理由で行っていることも多いからだ。もちろん、これは僕の主観なのだけど。

 だから、思考停止に陥ることなく、よりよく働く、よりよいチームということを教師一人ひとりが考えないといけないのではないだろうか。そして、それを持ち寄って考える時間を作らないといけないのではないだろうか。こんなことを読みながら考えた。

 チームについて考えたい人にとっては読んで損なしの一冊である。是非手に取ってみてください。