小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

つくし世代とは?

 著者は広告代理店アサツー ディ・ケイ(ADK)に勤務し、マーケティングを担当している。そして、マーケティングで得た知見をまとめたものが本書である。

 著者は、本書で「若者」を「1992年に小学校に入学した人たちよりも若い世代」と定義した。その理由を四点挙げている。

 一点目、個性尊重を打ち出した等の教育環境の変化。二点目、共働き世帯数が専業主婦世帯数を上回った、家庭環境の変化。三点目、インターネットの普及等のIT環境の変化。四点目、バブルが崩壊した、経済環境の変化。

 また、筆者は「ゆとり世代」「さとり世代」という言葉で、一括りにされ、揶揄されている状況に違和感を覚えている、と語る。そこで、「ゆとり世代」「さとり世代」を更新する言葉で「若者」を表現する。それが本書のタイトルにもなっている「つくし世代」である。

 「つくし世代」と表現できる若者たちの傾向を、筆者は「チョイスする価値観」「つながり願望」「ケチ美学」「ノット・ハングリー」「せつな主義」『新世代の「友達」感覚』「なぜシェアするのか?」『誰もが「ぬるオタ」』「コスパ至上主義」という九つの視点で語っていく。

 僕は、「いや、結局一括りにしてるじゃん!」とツッコミしつつも(笑)、概ね肯きながら本書を読了した。もちろん、最大公約数的な若者の傾向を読み取っているだけであるので、そこに収まり切らない傾向も存在している。さらに、時間が経過していくうちに言説が古くなっていっているかもしれない。だけど、現在から未来へ眼差しを向けるという作業を行っていることは評価したい。

 社会がどう変化してきたか、社会がどう変化しようとしているかに興味を持ち、そして十年後、二十年後と未来に眼差しを向ける。もちろん、未来ばかりではない。過去も同様である。過去から現在までの変容からしか、未来への想像力は生まれない。

 本書を読んだことで、自分なりに「ゆとり世代」と呼ばれたことやそんな時代を生きて現在に至っている状況を、まとめたいという思いに駆られた。その試みを最近始めた。かなり遅くなってしまった思いもしているが…。その記事を張り付けておくので、よければそちらもご覧ください。

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ポスト・コロナの学校現場⑱「葛藤の中でいるということ」

 以前の記事でも書きましたが、新型コロナウイルスの影響で行事の計画が難しい状況です。二学期というのは、大きな行事が多くあります。運動会、遠足、学習発表会、修学旅行等々。

 だから、これらの行事を実施するのか、ということに頭を悩ませることになります。上記した行事は、学校生活の思い出の中では上位に位置しそうなものばかりである。だからこそ、余計に頭を悩ませるのである。

 さて、散々悩んだ挙句、実施することとする。そうなったとしたら、次にはどのように実施するのか、ということに頭を悩ませることとなる。例えば、運動会ではどのような種目を行うか、観客の人数が絞るか等々。簡単に実施するとはならない。もちろん、実施しないと決めた場合でも頭を悩ませることとなるのだけど。

 ちなみに、ここで実施する実施しないという問題には答えがない。どちらがよいかを判断するのは難しい。どれだけ納得できるかというのがあるだけ。そして、全員が同じように納得することはほぼ不可能と言っても差し支えない問題でもある。だから、頭を悩ませるのである。

 ここまでのことを踏まえると、教師は「葛藤の中でい続けている」こととなる。現在のコロナ禍の中では、教師だけでなく多くの人が「葛藤の中でい続けている」のだとは思うが。例でも挙げたように、「葛藤の中でい続ける」ということはかなりしんどいことではある。

 でも、この「葛藤の中でい続ける」ことって、けっこう大切なことなのではないか、と思う。なぜなら、教師は葛藤の中でいることが基本なのではないか、と思うから。そうは言いながら、普段はそうではないように思い、教育をしている。葛藤の中でいない振りをしているように感じている。葛藤の中にいることを意識しすぎると、確かにフットワークが重くなってしまう。しかし、葛藤の中にいるということを全否定するような態度はよくないのではないか。そう感じている。

 新型コロナの影響で、「葛藤の中でい続ける」教師というのが浮かび上がってきている。葛藤するということを引き受けながらも、日々の教育を推し進めていく、という態度を今一度再確認することが求められているのではないだろうか。

 

【過去記事】

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好きなおやつを三つ

今週のお題「好きなおやつ」

 

 今回のお題は「好きなおやつ」だ。とても書きやすいテーマである。そりゃあ、好きなおやつは一つや二つ、と言わずいくつもある(笑)。それをポンポンと書いても面白味がないので、なるべく他の人が挙げなさそうなおやつを狙っていくことにしてみよう。さて、「それ分かるな~」と共感してくれる方は現れるのだろうか。

 

①ポップコーン

  好きなおやつの一つがポップコーン。ポップコーンだけでも、けっこういろいろなメーカーから出されている。そして、それを全てと言っていいほど食べてみた。自分が好む味を求めて。

 量が多すぎて終盤飽きる、塩味が薄い等々、自分なりにこだわりつつ選定していった。でも、なかなか目当ての味には出会えなかった。

 そんな時に、ふと入ってみた駄菓子屋に置いていたポップコーンがこの「やおきん」のもの。食べてみると、これを求めていたのだ、とすぐに思えた。それぐらいちょうどいい一品。ポップコーン好きの人は是非どうぞ!

 

ココナッツサブレ

  これは小さい頃、よく母親が買ってくれた覚えがある。決して好物だったわけではないのだが…。

 だから、今でも別に好物ではない。だけど、今となっては思い出の味のような位置づけとなっている。だからか、たまに買ってしまう。そして、食べているとこんなにもいらないな、と毎回思っている(笑)。

 でも、また買ってしまう。小さい頃に覚えた味って、ずっと食べてしまうのでしょうかね。

日清シスコ ココナッツサブレ 20枚

日清シスコ ココナッツサブレ 20枚

  • 発売日: 2020/03/03
  • メディア: 食品&飲料
 

 

羽衣あられ

  これも小さい頃によく食べた。すごくおいしい。食べ出したら止まらない。かっぱえびせんも止まらないけど、個人的には羽衣あられの方が止まらない。

 でも、大人になって知ったのだが、羽衣あられは地域もので販売していない地域もあるということ。これには驚いた。確かに、全然見ないな、と思っていた。

 羽衣あられを食べたことない人はかなり損していますよ、と自信を持って言えます。まだ食べたことがない方は是非とも食べてみてください。

ブルボン アルミ羽衣あられ 47g×10袋
 

バラバラのままで

 この作品は、劇作家である平田オリザが、自らもワークショップなどで関わりを持ち続けてきた高校演劇をテーマに書き下ろしたものである。

 平田オリザが提唱する、自然な会話とやりとりで舞台を進行する現代口語演劇理論が、ストーリーの中で示されている。文体にもその理論が反映され、「…って感じ」「…みたいな」「…とか」といったカジュアルで拙い言い回しによる、主人公の一人称語りが多用されている。

 この作品は映画化された。監督は、あの「踊る大捜査線」シリーズを手掛けた本広克行が務めた。そして、主役とも言える演劇部の生徒役五人を、当時「ももいろクローバーZ」であったメンバーの五人が配役された。

 プロモーションの甲斐があってか映画は盛況。40第回報知映画賞では本広監督の演出と「ももいろクローバーZ」の演技が認められ、両者に特別賞が贈られた。他にも39回日本アカデミー賞の話題賞、TSUTAYA映画ファン賞等も受賞。脇を固めていた、黒木華ムロツヨシ天龍源一郎の演技についても話したいけど(笑)、また別の機会に。

 作品の中で、「スポーツと違うから、みんなが一体になる必要なんてない。どれだけ違うか、どれだけ感性とか価値観とかが違うかを分かっていた方がいい。バラバラな人間が、バラバラなままで、少しずつ分かり合うのが演劇」という記述がある。

 これは、「インクルーシブ教育」についても有意義な示唆を与えてくれる記述である、と思う。

 「バラバラな人間が、バラバラなままで、少しずつ分かり合うのがインクルーシブ教育」と、言い換えることもできるではないだろうか。

 青春小説で間違いないではないのであるが、上記のように、筆者である平田オリザの演劇論にも触れることができる作品になっている。

幕が上がる (講談社文庫)

幕が上がる (講談社文庫)

 

ポスト・コロナの学校現場⑰「ありがたみが薄まる」

 臨時休校中、もちろんでありますが学校が休みとなりました。だから、子どもたちはそれぞれの家庭で時間を過ごすこととなった。共働きだとやりくりが大変だっただろう、子どもも大人も家庭にずっと縛り付けられるのは大変だっただろう、ということが想像できる。

 だからなのか、学校が再開になると割と好意的な意見が多く見られた。子どもたちは「早くみんなと会って勉強がしたい」等と語った。大人は「学校に行ってくれるようになって嬉しい」等と語った。

 これらの声を聞くことができ、学校現場に身を置く者としては嬉しい限りであった。

 このような言葉は教師側でもあった。

 臨時休校中、職員室で以下のような声を聞いた。「あれもこれも自分たちだけでするんだな、いつもなら子どもたちとできるのにな~」「子どもたちの力ってありがたいんやね」と。

 つまり、子どもの存在のありがたみを実感したというわけだ。だから、学校が再開となり、子どもたちと再会することができて多くの教師は喜んだ。

 さて、そんな頃から月日は流れた。上記したような思いを抱いているのは、一体何人ぐらいいるのだろうか、と問うてみたいぐらいである。

 人はこうも慣れ、あの時の思いを忘れてしまうのか、と思っている。きっと忘れているわけではないのだとは思う。ただ、それを思い出す時間や余裕がないだけなのだろう、とは思っている。それに、人は忘れられるからこそ、辛いことを調整できているのだろうし。

 だけど、教師はあの時の思いを思い出す必要があるのではないだろうか。その思いがあれば、少しでも丁寧に、少しでも誠実に子どもと対峙できるのではないだろうか。

 

【過去記事】

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近いような、遠いような

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

 

 敬老の日が近いということで、お題が「おじいちゃん・おばあちゃん」となったのだろう。せっかくなので、自分自身の「おじいちゃん・おばあちゃん」のことを思い返しながら記事を書いてみる。

 思い返しながら、という部分で察していただけるような気がする。僕の「おじいちゃん・おばあちゃん」は、もうすでに亡くなっている。思い返すことが、少しでもの供養になるかな。

 さて、「おじいちゃん・おばあちゃん」のことを考えてみると、思いついたのがタイトルにもしている「近いような、遠いような」ということ。つまり、「おじいちゃん・おばあちゃん」が、近い存在のようにも感じていたし、遠い存在のようにも感じていたということ。

 「孫ほどかわいいものはない」とよく言われるように、「おじいちゃん・おばあちゃん」としては、孫はかわいいようだ。それは僕だってそうであった。かなりかわいがってもらったように記憶している。いろんな所に連れて行ってくれたし、いろんな物を買い与えてもらった。誕生日プレゼントやクリスマスプレゼントだってもらった。だから、当たり前のように近い存在であった。

 それが、自分自身が年齢を重ねるごとに、遠い存在と変わっていった。年を重ねると「おじいちゃん・おばあちゃん」に会うのが億劫に思うようになった。それは、何も「おじいちゃん・おばあちゃん」に対してだけではないのだが。いろいろなことについて考え、何となく面倒に思うようになる。いわゆる中二病かな(笑)。

 このような経緯があって、「近いような、遠いような」ということなのである。だけど、やっぱりいなくなってからは、「もう少し会っておけばよかったかな」なんて思うことになる。敬老の日を意識したのも、「おじいちゃん・おばあちゃん」がいなくなってからなのだ…。だから、「おじいちゃん・おばあちゃん」との時間を大切にしてほしいな、と思います。

今は今しかない、次に同じような状況になってもそれは今じゃないんだ

今は今しかない、次に同じような状況になってもそれは今じゃないんだ(by三沢光晴)

 

 現場は一瞬一瞬が勝負である。それは学校現場でも同じ。

 指導・支援したい、指導・支援しないといけない、と思った時はたぶんその教師が考えた中での一番よいタイミングだろう。それは、子どもにとってよいタイミングかわからないし、客観的に見ると悪いタイミングなのかもしれない。

 しかし、指導・支援したい、指導・支援しないといけない、と思ったものの後回しにするとだいたいよくないことが起こる。子どもたちが同じことを繰り返す、そこで指導・支援しようとすると「さっきもあったけど…」みたいな態度を取り子どもたちとのギャップが生まれる等。このことについて教師は敏感でありたい。

 もちろん、教師が指導・支援したい、指導・支援しないといけない、と思った時すべてがよいタイミングではないこともある。それについても自覚的でありたい。あたかも自分がルールのように、自分の言動を絶対視することはあってはならない。

 つまり、「今は今しかない、次に同じような状況になってもそれは今じゃないんだ」ということを自覚しつつ、「本当に今のタイミングがベターなのか」ということに敏感でありたい、ということ。そのためには「メタ認知」が必要になる。自分自身を自分自身でチェックするという姿勢が。

高学年と向き合う

 高学年の子どもたちへの対応の難しさは今に始まった話ではありません。高学年の子どもたちへの対応を難しく感じている教師は多くいる。それは僕も含まれている。

 しかし、そこで二の足を踏んでいる場合でもない。何かしらの糸口を見出したくいくつかの本を読んでみたので、紹介することとする。

 

①宇野弘恵『タイプ別でよくわかる! 高学年女子 困った時の指導法60』

 高学年女子の指導について学びたい、と思い手を伸ばした一冊。高学年女子の指導には苦い思い出が多い。いまだに上手くいった、と感じられることは多くない。

 そんな高学年女子を四つのタイプに分ける等、わかりやすく示してくれている。僕にはこんなこと思いつかない、気づかない、と思うことがたくさん。

 そして、一番目にとまったことが「信頼」ということ。高学年女子を指導するには根底に信頼がないと上手くいかない。これは高学年女子だけではないだろう。

 

②赤坂真二『小学校高学年女子の指導―困ったときの処方箋』

 宇野先生の「高学年女子」本を読んでみたので、関連づけて再読してみた。

 宇野先生の考えと重なるところが多くあるように感じた。また、高学年女子の周辺にありそうな問題のあれやこれやについて具体的に述べてくれているので、高学年女子の指導について悩んでいる方はすぐに何かしらのヒントを得られるだろう。

 根底には、「受容的な態度」「信じると腹を括る」「信頼感を醸成する」というのがないといけない、と理解した。

 

③松尾英明『お年頃の高学年に効く! こんな時とっさ!のうまい対応』

 高学年への指導として適切なOK指導としてはいけないNG指導が対比されながら提示されている。だから、よりOK指導について理解しやすい構成となっている。

 読んでいて高学年の指導のキーワードが自分の中に浮かび上がってきた。それが「最小限に」「預ける」「信頼する」ということ。

 指導はなるべく最小限にとどめる。そして、なるべく子どもたちにいろいろなものを預ける。そこには子どもたちへの信頼がある。このような指導と言えるのではないだろうか、と考えた。

 高学年の指導に悩んでいる者にとってはとても助けになる一冊である。

 

 この三冊から導き出されたものは、高学年の子どもたちへの対応には「受容的な態度で、指導は最小限に、子どもたちに預け、信頼する」ということが大切だということ。かなり長ったらしいけども…。また、ここで導き出したものは何も高学年だけに大切なものではない。どの子に対応する時にも大切にしたいものであろう。

 自分なりに新たな意味づけを確認することができて満足している。高学年と向き合いたい、と考えている方には今回紹介した三冊はかなりおすすめです!

タイプ別でよくわかる!  高学年女子 困った時の指導法60
 
小学校高学年女子の指導―困ったときの処方箋

小学校高学年女子の指導―困ったときの処方箋

  • 作者:赤坂 真二
  • 発売日: 2005/03/01
  • メディア: 単行本
 

 

ポスト・コロナの学校現場⑯「歪みが見えてきた」

 何回も述べてきましたが、新型コロナウイルスの影響で学校が休校となった期間がありました。だから、標準と言われる学習進度よりも遅くなっているのが学校再開時点での状況でした。

 それに対応するべく、各自自体で夏休みの短縮や土曜授業の実施、七時間授業の実施等を導入しました。また、多くの行事の中止や縮小もなされている(これは新型コロナウイルスの蔓延を防ぐためという側面もある)。

 ということで、幸か不幸か授業に専念できる環境となっているように感じている。だからか、例年より確かに学習進度が遅くなったスタートであったが、始まるとハイスパートな学習進度である。結局、一学期の範囲を一学期で終わらせている学級がほとんどであった。

 そして、今や学習進度は標準よりもかなり早くなっている。これは悪いことではない。また、いつウイルスの流行が起こり、休校を余儀なくされるかはわからない。最悪の事態を想定した上での学習進度なのであろう、と思う。

 理解はしつつも、少し過剰ではないか、と感じていた。何だか息が詰まりそうではないかな、と感じていた。

 そうこうしているうちに、先週の記事で書いたように不登校傾向を示す子どもたちが複数出てきた。また、子どもたちに活気がないような様子も見られるようになってきている。

 活気がない、と言っても活動できない、活動に参加しないということではない。簡単に言うと「指示待ち」のような状態である。

 ハイスパートに学習を進めるということは、かなり隙間の時間は減らされる、また矢継ぎ早に教師から指示が出されることとなる。教師が話すことは多く、子どもたちが話すことは少なくなる。

 だから、子どもたちは「指示待ち」になる。このような状況は今に始まったものではない。だからこそ、新学習指導要領でも「主体的・対話的で深い学び」がキーワードとして打ち出されているのではないだろうか。

 新型コロナウイルスの影響があるからしょうがないでは済まされない話ではないだろうか。「歪み」が生じていることに教師は気づかないといけないのではないだろうか。そして、現在の在り方ややり方を再考する必要があるのではないだろうか。

 

【過去記事】

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お供のあれこれ

今週のお題「ごはんのお供」

 

 ご飯の記事って前にも書いたような気がする。ちょっと探してみる…。

 やっぱりあった。せっかくなので、その記事を貼っておくので、よければご覧ください。

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  さて、今回はご飯のお供の話。ご飯のお供はいろいろある。というか、ご飯を食べる時、必ずと言ってもいいほど何かしらをお供にしてご飯を食べている。それは、おかずをお供にしている時もある。おかずの話をしだすと、もう終わらなさそうなので(笑)、純粋なご飯のお供について書いていこう。

 よくご飯のお供にしているのではないか、と思っているものをいくつか挙げてみる。

梅干し、海苔、漬物、ふりかけだろうか。ここら辺が、レギュラーメンバーかな。

 梅干しはできるだけすっぱいのを選ぶ。はちみつで少し甘めにしているものもあるが、やはりすっぱい方がご飯が進む。想像しただけで唾液が溢れてくるのがやっぱりいい。

 のりは味付け海苔。あれがあればどれだけでもご飯が食べられる。最近のコンビニのおにぎりでもよく味付け海苔が使われている。でも、具なしで味付け海苔の味だけでご飯を食べるのが一番なのではないか、と思っている。

 漬物は小さい頃からけっこう好きだ。特にきゅうりの浅漬け、しば漬けが好きだ。ご飯のお供と言いながら、漬物を単独で食べている割合もかなり高いのだけど(笑)。

 ふりかけはマストアイテムであろう。ふりかけを考えた人は本当に素晴らしい。いろんな楽しみ方ができるから。でも、何だかんだと言いながら、いつも丸美屋ののりたまをかけている気がするけど。

 いかがだったでしょうか。よければ今晩のご飯のお供にどうぞ!

ゆとり世代教育論「はじめに」

 新型コロナウイルスの影響が大きく、何だか忘れ去られていないか心配になるが、小学校では今年度より新学習指導要領が全面実施されている。「主体的・対話的で深い学び」が大きなキーワードとなっている。

 新たな教育の方向性が示されるようになると過去のことはすっかり忘れ去られていく。その一つが「ゆとり教育」。「ゆとり教育」とは、知識重視型の教育方針を詰め込み教育であるとして学習時間と内容を減らし、経験重視型の教育方針を持って、ゆとりある学校をめざした教育のことである。

 「ゆとり教育」の始まりに諸説あるが、僕はどんな区切り方をしても「ゆとり教育」の枠の中に入ることになる。そして、ゆとり教育を受けた僕たちは、「ゆとり世代」と揶揄されるようになっていく。自分が教育を受けている時には、よくわからなかったが、社会人となる頃には自分の耳によく「ゆとり教育バッシング」が届くようになっていた。

 そのおかげで、世間から見ると、何だか僕たちは出来損ない、失敗作のようであるらしい、と認識した。また、テレビや新聞で「ゆとり世代」に対してのバッシングも日に日に増えていった。

 その時、僕は反発した。「いや、そうじゃない!」「上の連中はわかっていない!」等。今、思うとこの考えも悪くないけど、正しくはない、と思う。まあ、若気の至りかな(笑)。それに、年長者の「最近の若い者は…」のような話は、今に始まったことではないし。

 そんな年長者の言葉に諦観したのか、僕たちは「ゆとりなんで…(笑)」と応えるようになる。もちろん「ネタ」で言っているつもりだった。でも、いつしか「ネタ」が「ベタ」になりつつあるようにも感じていた。つまり、年長者たちからの言葉を飲み込むふりをし、「ゆとり」という言葉を半ば逃げ口上としていたのだ。結局、年長者の言説と同じように、僕たちも思考停止に陥っていたように思う。

 今は、年長者たちから投げかけられた言葉を、「いや、そうじゃない」「言われてみると、そうだよな~」の間で揺れながら受け止めている。まさにグレーゾーンに位置している。だけど、この位置にいることは決して嫌ではない。むしろ、この位置にいられるからこそ考え続けられるとも思っている。

 さて、時はすでに「令和」。そして、新しい学習指導要領の全面実施。今さら何昔の話をしているのだ、と思われそうである。だけど、前に進むためには、過去を総括することは必要でないだろうか。

 そうしようとするならば、僕たちが生きてきた時代を俯瞰的に読み解く必要がある。そうすることで、「ゆとり世代」が生きてきた時代、見てきたこと、考えていることなどの一端を示すことができる、と思う。もちろん、僕が「ゆとり世代」の代表でもないし、僕の考えだけで「ゆとり世代」の考えが一般化できるわけがない。だが、実際にその世代である僕が語ることに意義はあるだろう。

 社会がどう変化してきたか、社会がどう変化しようとしているかに興味を持ち、そして十年後、二十年後と未来に眼差しを向ける。もちろん、未来ばかりではない。過去も同様である。過去から現在までの変容からしか、未来への想像力は生まれない。

 そろそろ僕たちは僕たちなりにでも、誰でもない僕たちについて総括し、未来へつなげる作業を行わないといけないのではないだろうか。かなり機を逸している気はしているのだが、このような思いを強くしている。

 

 このような思いをエネルギーにして、「ゆとり世代」が考える教育論なるものを少しずつ書き連ねていくことにする。よければご笑覧ください。

課題先進国で生きる

 2016年、電通の女性新入社員の自殺が、長時間のが原因だったとして労災が認められる、という報道があった。それに呼応してか、翌年1月29日に厚生労働省から、働き方改革(長時間労働の抑制・年次有給休暇の取得促進)を支援する「働き方・休み方改善ポータルサイト」の開設が発表されることとなる。長時間の過重労働が本格的に見直されようとしてきている。

 これは教師の世界も同じである。一月に週に60時間以上働く小中学校の先生の割合が70~80%に上ることが、全国の公立小中学校の教諭約4500人を対象にした連合のシンクタンク連合総研」の調査でわかった。これに伴い、当時の松野文部科学相は、業務改善のモデル地域の指定、有識者ら業務改善アドバイザーの教育委員会への派遣、部活動の休養日などに関するガイドラインづくりという三つの対策を掲げた。

 教育の現場にも「働き方改革」が導入されてきている。しかし、「公立学校教育職員の給与等に関する特別措置法」(給特法)が大きな壁にもなるかもしれないと思う。教師の仕事は複雑で管理が難しいとして、残業代を払わず、代わりに基本給の4%を全員に支給する仕組みになっている。前提として、教師は残業があってもしょうがないよね、と宣言しているようなものだ(苦笑)。もちろん、これにより地方公務員よりも高い給与になっているのだけども。

 とにもかくにも、官も民も「働き方改革」に着手し始めているのだ。それを進める上で外せないキーパーソンの一人が駒崎弘樹氏である。

 駒崎氏は2004年にNPO法人フローレンスを設立し、日本初の「共済型・訪問型」の病児保育サービスを首都圏で開始した。また、2014年には、これまで保育園に入れなかった医療的ケアのある子ども達を中心とした障害児を専門的に預かる「障害児保育園ヘレン」を東京都杉並区に開園する等、先駆的な活動を精力的に行っている。

 今や「働き方改革」は、先述したように政府も精力的に行うようになった。さらに、多くの書籍の出版等で「ライフワークバランス」という言葉も聞かれるようになっている。そこで紹介されるような事例を、この本でも紹介されている。それが駒崎氏自身の失敗や思いと共に記してくれているので、とても読みやすくなっている。

 もちろん、これらの部分は素晴らしい内容なのだけど、僕が心惹かれたところはここではない。それが

「先進国は先進国でも『課題先進国』さ。我々は何の因果か、1人で早めにテストを受けなくっちゃいけなくて、過去問もなく、カンニングもできない状況なんだよ。」

 と、氏が参加していた政府の専門委員で出会った大学教授からの言葉である。

 僕たちが暮らすこの国や社会は、確かに課題が山積している。それは教育も同じように。だけど、そこに答えはない。そして、誰も答えを教えてくれない。そんな状況である。

 そこに少しでも前向きにコミットできるような姿勢でいたい、と思っている。そんな思いを強く抱くきっかけを与えてくれたのが本書だ。「働き方改革」という視点だけでなく、多くの刺激を与えてくれる一冊である。

ポスト・コロナの学校現場⑮「疲れが出てきている?」

 新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐということを目的に、いろいろと対策が取られるようになり久しい。 そこで出てきたものが「コロナ疲れ」という言葉。長引くコロナウイルスによる影響により、不安やストレスを感じ、それが原因で心身の状態が悪くなってしまうことである。  

 それは子どもたちだって同じである。問題行動が多くみられるようになった、とは感じていない。ただ、不登校傾向を示す子どもたちの割合が増えてきているように感じている。  

 荒れるのではなく、引きこもってしまう。このような現象は、最近の学校でよく見られるものではある。また、「コロナ疲れ」と呼ばれる状態とも似通っているように感じる。  

 この不登校傾向を示す子どもたちの割合が増えてきていることとコロナウイルスによる「コロナ疲れ」に関連性があるのかはわからない。それに、どのようにすると関連性があることを証明できるかもわからない。それは、違う誰かに譲ろう(笑)。  

 現場にいる者として、肌感覚的に上記したようなことを感じているのは間違いない。だから、ここにどのように対応していくのか、ということを考えることをしないといけないのだろうな。というか、これしか今のところできることはないだろう。  

 結局、「不登校支援」や「心理的アプローチ」のような生徒指導のことについて学び、考えたらよいということなのだろうか。うーん、そうなのかな…。悩みながら、考えは続けることにしよう。

 

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面倒くさくて、無駄なもの

今週のお題「もしもの備え」

 

 台風10号が猛威を奮う、と先日から多くの報道がされている。みなさん気をつけましょう。何だか意図せずタイムリーなお題となった。

 でも、期待しないでください(こんなこと言わなくとも誰も期待していないか?)。いつものようにゆるい内容です。防災の情報を得たい、と思われて記事を見てくださった方には申し訳ないです。特に得られる内容ではありません。ご了承ください(笑)。

 「天災に備える」ということはどこでも耳にすることである。天災だけでなく、どのような不測の事態でも「備えておく」ということが基本の姿勢なのであろう。

 僕もかれこれ何年がかりになったかわからないが、少し前にそれなりの備えを用意することができた。何年がかりになってしまったのは、単に腰が重かっただけである…。何とも情けない話である。だけど、このような人も世の中にはけっこういるのではないだろうか、と思っている。

 さて、どうしてもしもの備えを用意するには時間がかかってしまうのだろうか。それは、「もしも」だからこそ時間がかかり、腰が重くなってしまうのではないか、と考えている。

 「もしも」ということは、仮定の話である。だから、必ずしも起こるわけでもないし、必要があるわけでもない、と考えてしまう。もちろん、ここには個人差がある。でも、このような思考の流れになってしまうのは容易に考えられる。さらに言うと、「もしも」だから、面倒くさい、無駄になるだろう、という思いもあるのではないだろうか。

 このように考えると、「もしも」という仮定の話では、なかなか動くことができないということが理解できるだろう。だけど、このような楽観的な考えではいけないのは間違いない。

 「もしもの備え」は、面倒くさいものだし、無駄になっていいものなのだ、ということ。備えを用意するというのは、日常生活とは別に用意することになるのだから、当然面倒くさいものなのだ。用意したものの中には、賞味期限等の期限付きのものもある。だから、交換を必要とする時もある。つまり、面倒くさいものなのだ。そして、用意しておいて矛盾するようなのだが、使わずに無駄になった方がいいのである。使わず無駄になるということは、何も起こらず平和だということなのだから。

 まとめると、「もしもの備え」というものは、面倒くさくて、無駄なものなのである。というか、そうあってほしいものでもある。これが楽なもので、ガンガン使うものであっては困る。

 ということで、「もしもの備え」を用意するなんて、面倒くさくて、無駄なものだよな、と感じているあなた。それは確かにそうです。でも、その「もしもの備え」が身を助けてくれることがあるかもしれません。今日でなくていいですが、なるべく早く備えましょう。これは自戒を込めながら、声を大にして言っておきます。

未来を創るということ

 僕が注視している教育ライターの一人が堀裕嗣先生。堀先生の著作の多くを読んでいる。そして、堀先生の論述から大いに刺激をもらっている。このブログでもいくつか書評を書いているので、よければ参照してください。

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  さて、今回は堀先生の『若手育成10の鉄則・100の言葉がけ』を読んだ。堀先生の本だから、という思いで手に取ったが、いやいや自分には若手育成なんて早い、と思い積読状態が長らく続いていた。

 しかし、自分では若いと思っているが、いつの間にか自分より下の年齢の者が増えてきた。その若手たちを育成してやろう、なんて上から考えているわけではない。でも、若手育成ということも考えていかないといけないのかな、と感じるようになり、今回読んでみた。

 堀先生と若手のやり取りを具体的なエピソードとして読むことができる。ここで書かれているやり取りは、堀先生とその若手たちとの関係があってこその言葉である、ということは忘れてはいけない。だから、そのまま真似しようとするのは違うかな、と思う。もちろん、伝え方を変えれば、伝えることはできるだろう。だから、自分と相手との関係を意識しながら、参考にできそうなところは取り入れられる。

 僕としては、若手育成の参考になるというよりも、堀先生が若手たちにかけている言葉がけを自分にされている、と思いながら読んでいた。若手でなくとも、何かしら感じ入るものがある。

 少しになるが、僕が気になった言葉がけを引用してみる。

仲良く楽しそうに過ごしている大人たちが近くにいる。これ以上に教育効果の高い教育方法はないんだぜ!

学校ではね、教師が真面目すぎるからうまくいかないことって、いっぱいあるんだよ……

  これらなんてのは、若手だけが聞いておかないといけないというものではないだろう。若手じゃなく、中堅でも、この言葉から考えることがあるだろう。

 堀先生は、「あとがき」で以下のように述べている。

僕のいまの仕事で最も大切なのは、僕が若い頃にしてもらったことを僕が出逢った若い世代に本気でしてあげること、そういうスタンスで若者たちに接すること、それだけなのではないか……、そう思うのです。

  このように考えると、若手育成は若手のためというだけでなく、自分がしてもらったことを恩送りしていくという意味合いも持つのだ、と思った。そして、その恩送りが結果として未来を創ることにつながるのではないだろうか、とも思った。だからこそ、若手育成というのはどの教師にとっても必要な視点だろう、と感じた。

 若手育成の参考にするのもよし、自分の教育観を見直すきっかけにするのもよしの一冊である。ということは、どの層が手に取っても、考えを深める触媒となるということだ。だから、是非手に取ってみてください。

若手育成 10の鉄則 100の言葉がけ

若手育成 10の鉄則 100の言葉がけ

  • 作者:堀 裕嗣
  • 発売日: 2016/02/22
  • メディア: 単行本