随分と評判のよい作品が文庫になったのを見つけたので手に取ってみた。単行本は分厚くて扱いにくいので敬遠してしまうので…。そんなことよりも、かなり今更感があるのだけど(笑)。
序盤で何となく終盤の予想はできつつも、やはりその最後が気になり読み進めた。読みやすい記述からかスラスラと読める。終盤もどんでん返しは無かったが(どんでん返しが無いわけではないのだが、個人的にはそこまで)感動的なものであった。
いい作品だと思うけど(という予防線は張りつつ・笑)、そこまでかなとも思ってしまったかな。
どんでん返しがあって欲しいっていうわけではないのだけど、終盤に向かい伏線が回収されることはない。伏線を張っているのではないのかもしれないけど。
また、登場人物に感情移入しにくかった。あと登場人物が少ないというか名前すらわからないから(笑)。それは中心人物である「僕」に寄せたのだとは思うのだけれどね。
いや、いい作品なのだとは思うのだけど。個人的には、そこまでといったところであった。
ポスト・コロナの学校現場㉕「分散型研究協議会」
前回のこのポスト・コロナの学校現場の記事で「分散型研究授業」という取り組みについて報告した。これがなかなか僕としてはよい取り組みだな、と感じている。
ということで、それに気を良くしたのでさらに取り組みを進めてみたのが、今回のタイトルにある「分散型研究協議会」。
分散型研究協議会とは、研究授業の後に行われる研究協議会を分散させたということだ。分散させるというのは、グループに分けたということ。そこで、ワークショップを入れ込み、研究協議会をすることにした。
どのようになったかというのは想像できるだろう。まあ盛り上がった。グループに分かれることで人数が少なくなるので、発言しやすくなった。また、ワークショップ形式なので、さらに発言するハードルというのは下がった。最後にはグループで話し合ったことを発表するということを設定したので、責任感があったのかもしれない。
とにもかくにも盛り上がりを見せたのである。やっぱり、みんな授業を見たら話したかったのだよね、と思った。それは当然でもあるだろうし、何かしらのフィードバックをしないというのは授業者にとって失礼なことだろう。
盛り上がったので良いのではあるが、新たな問いというか疑問が浮かび上がってくる。「元々していた研究協議会の良さは何だろうか」「元々していた研究協議会が盛り上がるためには何が必要か」「ワークショップ形式の研究協議会のデメリットは何だろうか」「盛り上がっているが、さらにより良いものにするにはどんな工夫が必要か」ということ。自分なりに考えていきたいことが浮かび上がってきたことを喜んでいる。
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冬と言えば鍋でしょ!
今週のお題「鍋」
寒くなってきていますね。とは言いながらも、
ゆとり世代教育論「デジタルネイティブからデジタルネイチャーへ」
離れてる気がしないね 君と僕との距離 目をつぶっていても 君の声でわかる表情/僕らはいつも 以心伝心 二人の距離つなぐテレパシー 離れてたって 以心伝心 黙ってたって わかる気持ち
(作詞:ORANGE RANGE、作曲:ORANGE RANGE)
これはORANGE RANGEの「以心電信」の歌詞の一部である。僕たちゆとり世代としては共感できる度合いは違えども、理解できる内容だと思う。
では、こちらはどうだろうか?
これはYUIの「CHE.R.RY」の歌詞の一部である。僕たちとしては、やはり理解はできることだと思う。
どちらもコミュニケーションの形態が変わるエポックを端的に表した言葉だと思う。だからこそ、両者とも人々―特に若者―の心を掴めたのだと思う。
さて、この歌詞はすんなり理解できるだろうか? この二曲の歌詞をすんなり理解できるのなら、それは「デジタルネイティブ」だからかもしれない。
「デジタルネイティブ」とは、デジタル技術に青少年期から本格的に接した世代のことで、およそ1980年前後生まれ以降を指す(木村、2012)。
そうだ、僕たちは「デジタルネイティブ」として我が物顔で、この情報化社会を生きている。
情報化社会の光と影
情報化社会のことを、コピーライターの糸井重里は、「インターネット的」という言葉で表現した。
〝人とつながれる〟〝乱反射的につながる〟〝ソフトや距離を無限に圧縮できる〟〝考えたことを熟成させずに出せる〟などなど、人の思いが楽々と自由に無限に解放されてゆく空間。こういった「情報社会」に生きているぼくたちの身体や考え方、生き方は、どんどん、このようなインターネット的なものになっていると思います。
僕たちデジタルネイティブは、そうでない世代が理解できないぐらいに、容易に人とつながることができるようになった、そしてつながるようになった。もちろん、デジタルネイティブ全員がそうしているわけではない。むしろ、僕たち以降の世代の方がよりそのような傾向は強いかもしれない。そんな彼らを「ネオ・デジタルネイティブ」と呼ぶ論者もいる。
差はありながらも、僕たちデジタルネイティブは、糸井が論じるインターネット的な考え方を内面化している。
だけど、「情報化社会」では、多くの問題も起こっている。ネットいじめやネットを介した異常なバッシングの報道を目にすることは今や日常となっている。
また、2013年に大きく取り上げられた「バカッター問題」もある。投稿する者は、あくまでも悪ふざけであり、内輪のネタとして投稿するが、そのあまりにも酷い内容に炎上が起こる。炎上後に事の重大性に気づいた時には、既に手遅れであり、取り返しのつかない事態となる。
年長者が「失敗も経験のうち」と考えたのに対し、僕たちゆとり世代はリスクを恐れ、失敗を回避しようとする。それにはSNSの普及が大きな原因となっていると思う。「失敗を通じて成長する、むしろ器が大きくなる」という説が間違いだとは思わない。しかし、昔なら「みんな馬鹿なことをやって大人になるんだ、それも人生の経験だよ」と許された、SNSで拡散されることもなく。したがって、警察沙汰にもならなかった。
だが、今はそんな悠長なことを言っていられない。ネットいじめやネットでの異常なバッシングやバカッターは「人生を一瞬で終わらせる力」を持っている。僕たちゆとり世代はそんな時代を生きてきているのだ。
明るいオタク化
「オタク」という言葉からどんなイメージを思い浮かべるだろうか? 今でも良いイメージを抱かない人もいるだろう。だけど、昔ほど忌避される存在でもなくなったように思う。それも情報化社会が大きく影響している。
ネットインフラの整備によって手軽に情報が取れ、評価の高い人気作を簡単に視聴できるようになった。また、付け焼刃、一夜漬けのネットサーフィン程度で、お金や時間を使わず、だれでも「(エセ)オタク」を名乗ることができるようになった。つまり、「オタク」を、自分を特徴づけるキャラとして利用するようになったのだ。だから、若者たちにとって「オタク」という言葉は忌避されるようなものではなくなってきている。むしろ、「オタク」ということを公言し、対人コミュニケーションツールとして活用している。これが「明るいオタク化」の様相だ。
もちろん、上記したような状況を喜ばしいものとして思っていない「オタク」たちもたくさんいる。「オタク」をキャラとして考えている者と「オタク」として生きていると自負する者の間には大きな溝ができてきている。だけど、この問題も情報化社会がある程度解決してくれる。
ネットを使えば、自分の趣味・嗜好と似たような者に出会うことも簡単になった。だから、自分の趣味・嗜好についての周りのリアルな人間関係でコミュニケーションを取る必要を無くさせた。趣味・嗜好の思いを昇華する場を得るのに、なかなか理解してもらえずに「我慢する」とか、同じ趣味・嗜好をもつ人間を見つけるために「努力する」とかいった必要性を無効化した。趣味・嗜好を同じくする仲間を見つけることに社会が努力を強いなくなったわけだ。その自分が心地よい場だけで留まることも容易になったのだ。
しかし、そんな閉ざされた場にいるとどうしても「島宇宙化」してしまう。これ自体は悪くないのだけど、どんどん排他的になってしまう。そうなってくると、前節で述べたような情報化社会の影の部分が色濃くなってしまう。
デジタルネイチャーの時代へ
今まで述べてきたような情報化社会を、僕たちは生きている。僕たちがこれから生きていくのは「デジタルネイティブの時代」というより、「デジタルネイチャーの時代」と言っても差支えがないと思う。
僕たちゆとり世代は当たり前のようにデジタルと共に生きている、どこでも誰とでも繋がってしまえる、デジタルを空気のように当たり前の存在として捉えている、たぶん初めての人類だ。それと同時に、情報化という自然を生きている。そこにある自然は、美しいものもあれば醜いものも混在する、まさに密林といった様相である。だからこそ、「情報リテラシー」という言葉がやかましく叫ばれるのだろう。
糸井重里は、インターネットの光と影をこう表現した。
人間の思いには、善いとされるもの、悪いとされるもの、取るに足らないもの、変わったもの、と、さまざまあります。こういうものが、ぜんぶ集まってくるのもインターネットなわけです。ふつうに生活していく中では目にしなかったものがありますし、存在さえも信じられないというような仰天の情報もあります。ありとあらゆるものが、インターネットの世界にどんどん蓄積されていて、呼び出したとたんに噴き出してきます。
いままで差別されたり押し隠されてきたようなマイノリティの情報発信も、ここでは簡単にできます。グロテスクもエロティックも、人間の社会に存在するイメージは、すべてここに集まっていくでしょうし、受信することもできます。言葉にできることと画像にできること、のすべてが噴き出したときに、いままでの「ないことになっていたもの」までもが見えてきてしまいます。
人類は、ついにパンドラの箱を開けてしまったのかもしれません。これは何だか怖いことですが、無数の欲望の総体が出てくる代わりに、英知の総体も出てくる可能性もあるわけです。
もちろん、デジタルは万能のものではなく、光と影が存在する。僕たちデジタルネイティブは、そんなのすでに承知している。
年長者や識者の「デジタル機器を持つからいけないのだ、そんなの持てなくしてしまえ。無くしてしまえ」という、いささか感情論的な言説も聞こえてくる。だけど、もうデジタル機器を持ってしまったのだよね。もう手放せない。
だから、デジタルの酸いも甘いも噛み分けながら、この自然をこれからも歩いていくしかないのだろう。デジタルネイチャーとして。
引用・参考文献
自殺予防を考える
自殺について、自殺予防についての知識や考えが足りていない、と思う機会が増えてきた。自殺というのは、決して珍しいことではない。それは統計を見れば明らかである。しかし、まだまだセンセーショナルな伝え方がされているようにも感じる。
だから、まずは現状を知ることから始めないといけないのではないだろうか。日に日にこのような思いを強くしている。現状を正しく理解することが、何においても出発点になるのではないだろうか。
僕は自殺を少しでも減らしたい、と思っている。多くの子どもたちと日々対峙しているが、目の前の子どもたちが将来そのような決断をしないようにしてほしい、と願っている。それは本当に心から思う。こう考えていると、僕なりにできることはいくつもあるように思う。それが将来の自殺を予防することにつながるのだろう。
では、そんな自殺予防について理解しようとする時に何から学べばいいのか。僕は、高橋祥友先生の著作を薦めたい。少し古いものにもなるのだが、新書の『自殺の心理学』『自殺予防』は平易に書かれていて読みやすい。また、内容も自殺予防に関連する事柄が網羅されている。
高橋先生は自殺について以下のように述べられている。
自殺のキーワードは「孤立」である。困ったときには、誰かに助けを求めても構わない、むしろ、それが適切な対応なのだという点を強調したい。本書を読んでいただいた方には、ぜひ、自分が切羽詰った状況に陥る前に、そのような場面に遭遇したら誰に相談できるかを考えてみてほしい。かならずあなたのことを心配して、なんとか助けの手を伸ばしたいと考えてくれる誰かが周囲にいるはずである。自殺の危機とは、そのような人がまったくいないと固く信じ込んでしまうような状況であるのだ。
自殺は予防できる。それは自殺を考えている周りにいる人にかかっているかもしれない。つまり、それは自分自身の問題でもあるということだ。そう思える人が一人でも増えることで、自殺は減っていくのだと思う。そんな甘っちょろいものではないような気がするけど、自分のできると思えることをしていきたい。小さな教室からの挑戦だな。
ポスト・コロナの学校現場㉔「分散型研究授業」
学校が休校していた時にや学校再開の前段階として、「分散登校」なるものが多くの学校で実施されていた。一斉に登校するのではなく、分散して登校するのである。だから、教室には約半分の子どもたちしかいない状況であった。
これは案外よかったようだ。教師からすると、子どもの人数が少ないので一人ひとりとの時間を多く取ることができる。子どもたちからすると、教師が丁寧に接してくれているように感じる。お互いにとってよかったようだ。そんなことを職員室でも耳にしたし、ネットの記事等でも目にすることがあった。
さて、休校が終わり、学校生活は制約があるとは言え、通常のように感じられるようになってきている。そうなると、止まっていた学校での教育研究が進められるようになってきた。
そこで、一つの課題として挙がってきたのが、研究授業の仕方。多くの学校では、一つの教室での授業を多くの教職員が参観し、それについて協議をするという形を取っているであろう。僕の所属校もそうであった。しかし、そうすると教室の「密」は避けられないのだ。三密回避と叫び、学校でも新型コロナウイルス感染拡大防止について取り組んでいる。それに逆行するような形になってしまうということだ。
ということで、所属校では一つの教室での授業を参観するのではなく、二つの教室での授業を参観するようにした。つまり、教職員を分散させるということにした。そうすることで「密」は避けられることとなった。
また、分散させたことにより、協議会の人数が少なくなった。協議会も二つに分散させたのだ。そうすると、一人ひとりが話すことのできる時間が増えるし、話しやすくなっていたようにも思えた。昨年までなら、発言する者に偏りがあるように感じていたのだが、多くの者が発言できたようであった。
「分散型研究授業」も悪くないな、と感じた。怪我の功名といったところだろうか。ちなみに、この「分散型研究授業」というのは、僕が勝手に命名したものである(笑)。正式名称のようなものがあるのなら教えてください。
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もっぱらDVD
今週のお題「最近見た映画」
映画を見るというのはわりと好きです。特に趣味はないので、
平時と有事のコミュニケーション
ギラギラしてるか?
鈴木みのるを一言で言い表すとするなら、「ギラギラしている」である。「ストイック」ではあるのだけどそれではなく、やはり「ギラギラ」が一番しっくりくる。ちなみに、「ギラギラ」という言葉は、今回紹介する本のタイトルにもなっている。
ギラギラしているというのは、今でもいつでも何事に対しても諦めていないから。そして、虎視眈々と次のステージを見定めているということ。ここに加えて、鈴木みのるが今の状況を楽しんでいるということ。ギラギラすることを楽しんでいること。つまり、楽しみながら次のステージを狙っているということだ。
そして、改めてだけど、いろいろなことをすごく考えながらプロレスをしているのだ、とも思った。プロレスだけでなく、何事においてもそうなのだろう。例えば、本文の中に出てくる「知識」についての考え。少し長くなるが引用する。
本当は取り出せる記憶だって、それが整理されてないとすぐには取り出せないんだよ。だから、知識っていうのは、ちゃんと整理して、いつでも取り出せるように、いつでも使えるようにしておかないといけないんだよね。知識という〝本〟をいくらたくさん持っていても、山積みにされているだけだったら、それは〝古本〟でしかない。必要なときに、なかなか取り出せないわけだからさ。そうじゃなくて、ちゃんと本棚に50音順だったり、項目順、カテゴリー別に並べるという作業をしたら、その瞬間、古本が図書館の蔵書になる。頭の中でそれを作る作業っていうのは絶対に必要だなと思ってね。
なるほどな、と感じた。そのためにメモを取るということも紹介されている。一見地味なことを徹底しているということが大切なのだろう。
引用した内容が多くあり、プロレスファンだけでなく、ビジネスマンにとっても読む価値のある一冊だろう、と感じた。是非とも手に取ってみてほしい一冊である。
ポスト・コロナの学校現場㉓「お気楽な思考」
この前、車の点検ということでディーラーへ行った。そこで、
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服装の切り替え
今週のお題「急に寒いやん」
急に寒くなってきました。何だか秋と春という微妙な温度になる時が少なくなってきているようにも感じている。
寒くなってきた、と言いつつも日中は暖かいというか暑い時だってある。だから、もう本当に大変。なぜなら、服装が決まらないから。
寒いから厚手の服を着ると、案の定日中暑く感じる。その日中のことを考えて薄手にすると、案の定寒さにやられる。
服装をどうするかというのが本当に面倒だな、と感じている。でも、この微妙な温度になる時を有難い、と思っておかないとな。どうせ、冬や夏になると「寒すぎ! 暑すぎ!」と、文句を垂れるようになるのだから(笑)。
さて、明日はどんな服装にしようか、とまた今から天気予報を見ながら悩むのである。
お客さんには夢を見てもらいたいし、プロレスならそれができるんです。
お客さんには夢を見てもらいたいし、プロレスならそれができるんです。(by小川直也)
小川直也と言えば「ハッスル」という印象が今では強いだろうか。プロレスのリングに立ち始めた時は、かなりブーイングも浴びた。だけど、さすがオリンピアンである。そんな逆風も追い風にしつつプロレスのリングでも活躍した。
そんな小川直也の言葉を、今回は紹介したい。
プロレスは「台本があるんでしょ」「リアルじゃないでしょ、ショーでしょ」なんていう言葉を浴びせられることがままある。「じゃあ、台本があるドラマで感動しないか」「プロレスラーは生身の人間であり間違いなくリアルだ」なんて反論したくなる。
でも、小川直也の「お客さんには夢を見てもらいたいし、プロレスならそれができるんです。」という力強い言葉を聞くと、反論なんてしなくてもいいかな、と感じた。
では、教育に当てはめてみるとどうだろうか。
「子どもたちには希望を持ってもらいたいし、教育だとそれができるんです」。僕はこのように言いたい。
教育の場というのは、子どもたちにとって身近なものになる。そこにいる教師は身近な家族以外の大人となる。そんな教育に携わっている教師(大人)が希望を語れなくなったら終わりだ。子どもたちは希望を語れない教師(大人)を見て、希望を持つだろうか。いや、持たないだろう。中には、反面教師とする子もいるかもしれないが、多くはないだろう。
希望が未来を生きる活力になる。希望がよりよい未来を創る。だからこそ、子どもたちには希望を持ってもらいたい。そして、教育だとそれができるし、そうしないといけないだろう。それぐらい力強く言いたい。
ポスト・コロナの学校は?
新型コロナウイルスがあることに慣れつつある。慣れるという表現は間違っているのかもしれないが、僕にはこのような感覚がある。だからか、世間でも「withコロナ」「ポスト・コロナ」等と言うようにもなってきている。
さて、ポスト・コロナの学校はどのようになっていくのだろうか、どのようになっていけばよいのだろうか。このような問いが浮かび上がってくる。そのことに応えてくれる一冊がある。それが『ポスト・コロナの学校を描く』である。
全体を通して主張されていることは、「変わるきっかけを逃しちゃうよ!」「このまま元に戻るでいいの?」ということ。また、「これを機に学校の在り方を再考しましょう」ということ。現場にいる者だからこそ、考えないといけないのではないか、と感じている。それを自分なりに描いているのが「ポスト・コロナの学校現場」という連載記事である。よければご覧ください。
本書の中で、授業づくりネットワーク理事長の石川晋先生は、以下のような提案をされている。
許容範囲の広すぎる人も、狭すぎる人もいますが、ぼくは話し合って対応を揃えたらいいと思っているのではありません。互いの状況を持ち寄って対話し、相互了解・可動域の調整を図っていく。「ああ、自分はすこしゆるすぎるかも」「ああ、自分は少しキツすぎるかも」、そういう気づきは、集まって教室の子どもたちの様子を語り合うことでこそ生まれてくるものでしょう。
同じ学校の他の教室や隣の教室でどのように教育がなされているか知っているだろうか。新型コロナウイルスの感染予防をどのように行っているかを知っているだろうか。もしかすると、自分のしていることは自己検閲が厳し過ぎるのかもしれない。もしかすると、自分がしていることは周りから見るとだらしな過ぎるのかもしれない。
つまり、井の中の蛙状態に陥ってしまっているかもしれない、ということ。そうならないためにも、学校全体で対話を必要なのではないだろうか。対話を通して、同僚性を育むことにもつながるだろう。困難な局面を乗り越えるには、他者との対話・協働が大切になる。それは新学習指導要領の「主体的・対話的で深い学び」というキーワードに通じる。子どもたちに求めるなら、教師からではないだろうか。
ポスト・コロナの学校をどのように描いていくか、ということを現場にいる者は考えないといけないのではないだろうか。現場にいる者にとっては必読の一冊に間違いないだろう。
ポスト・コロナの学校現場㉒「愚痴や本音が言える場を」
新型コロナウイルスの影響で、いろいろなことに制限がかかるようになっている。今までできたことができないというのは、どうしてもストレスが溜まる。まあ、これは仕方のないことではあるのだけど。
でも、やっぱりストレスが溜まる(笑)。それは教師だってそう。それをどう解消するのか、というのは大きな課題の一つであろう。
できるなら、誰かに「話す」ということができるといいな、と思う。相手は誰でもいい。同僚でなくていい。同業種でなくてもいい。むしろ、そういう相手だからこそ話しやすいことだってあるだろう。
そう思いつつも、同僚と職員室で話すことができるといいな、とも思う。同じ場所で、同じようにいる者と話すことができるというのは大切なことだろう。愚痴だって本音だっていえるといいな、と思う。
だけど、そうなると「職員室で愚痴や本音なんて言っていていいのか?」とお叱りの声が聞こえてきそうだ。もちろん、僕だってこのような状態は決してよいとは思わない。でも、悪くはないとも思う。職員室だけでも、一息つき、愚痴や本音を漏らすことができるのは健全だ、と思う。
繰り返しになるが、別に職員室にこだわるわけではない。そうではなく、どうにかしてストレスを溜め込まず、何とかやり過ごしていける方法を考えておきたいということ。
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「いも」から思い浮かぶのは?
今週のお題「いも」
「いも」と聞けば、まず「さつまいも」が思い出される。