ツッコミ体質
僕たちが生きてきた、生きている社会は、「格差社会」と言われている。「勝ち組」「負け組」という言葉も流行った。また、「不寛容社会」とも言われる。さらに、「分断社会」とも言われる。格差や不寛容や分断が社会に浸透することによって生まれるもの、それは端的に言えば「自己責任」という考え方である。僕たちは「自己責任」という言葉をよく耳にした、また自分たちも使用した。
さて、ここで考えてみる。この「自己責任」という言葉を、いつ頃から耳にするようになったのだろうか?
調べてみると、2004年の新語・流行語大賞のトップテンに選ばれていることが分かった。同年に起こったイラク日本人人質事件での報道が大きく影響したようである。
自分が行ったこと等に自分が責任を持つ、という姿勢は大切であるとは思う。そういう意味で考えると「自己責任」は必ずしも悪いものではない。だけど、「自己責任」という言葉が使われる時の多くが、「オレは責任を取らないよ」と弱者に責任を押しつける保身と欺瞞の態度の表れとなっている。これが問題だ。
そして、いつも「自己責任」という所に帰着させてしまうと、正直しんどい。なぜなら、自分で行ったこと等の結果を常に突きつけられることになるからだ。また、自分が行うことを自分自身で全て探し出さないといけないからだ。
こんな社会を生きている僕たちは、自分の「安心安全」を確保するために、危機を回避するために「自己責任」という言葉を巧妙に用い、他者との関わり自体を回避するようになった。そして、「安心安全」と引き換えに孤独を手にすることになった。
おかげで、この国に住む人々はすっかり不機嫌を日常とする人々となってしまった。結果として、十分な満足を得られないようなサービスしか提供されなかった時にはクレームをつけても良いのだという「空気」が醸成されてしまった。税金で喰っていながら未だに安全神話の中で生きているように見える公務員に対してはいくらバッシングしても良いのだという、「空気」が醸成されてしまった。常にバッシングの対象を見つけ、少しの「悪」の部分を叩き、自分たちが優位に立とうという心理が蔓延しているのだ。
このような社会の様子を、槙田雄司(マキタスポーツ)は、「一億総ツッコミ時代」と形容した(槙田、2012)。
悲しいことに、今の日本は、困っている人たちが「いかに嘘つきであるか」を暴き立てることに意味のある社会になってしまった。弱者を叩き、彼らの利益を切り取れば、自分の負担を軽くできるからだ。お年寄りの利益、若者の利益、何かを減らせれば、それぞれ減らされていない方が得をすることになるからだ。
だが、このような「一億総ツッコミ時代」、クレームをつける者たちに、内田樹(2017)は警鐘を鳴らしている。
クレームをつければつけるほど、クレーマーは社会的に下降してゆく。そんなの少し考えればわかるはずなのに、「一億総クレーマー」を表現する方向にメディアは棹さしている。それは実現的には「一億総下層化」と同じ意味なんです。怒れば怒るほど、理不尽な要求をすればするほど、人間はその社会的価値を失って、階層を下降してゆくことになる。その当たり前のことを、メディアは決してアナウンスしない。
「嫌なやつ」は社会的に上昇できないんです。階層社会では上位にたどりつけるのは「いい人」だけなんです。「知らないことを知らないと言える人」「他人の仕事まで黙ってやる人」「他人の失敗を責めない人」だけが、相互支援・相互扶助のネットワークに呼び入れられて、そこでさまざまな支援を受けることができる。
この言葉を僕たちは重く受け止めないといけないと感じている。常にツッコミを入れ、そしてクレームをつける。もし、立場が変わった時に、ツッコミを入れ、クレームをつけていた者は、甘んじて違う者からのツッコミやクレームを受け容れるのだろうか? その時は、一転して受け容れるということは難しいだろう。
このような負の再生産のスパイラルをどこかで止めないといけない。それは正に今だ。そんな思いを強く抱くようになっている。
祭りに興じる
祭りは楽しいものだ。昔から祭りなどの非日常の時間を「ハレ」と呼び、そして日常の時間を「ケ」と呼んでいる。「ケ」の日常では様々なルールに縛られ、ルール違反を行えば何らかのペナルティがやってくる。人々はそうやって生きていく他ない、ということも知りながらも、やはりストレスはたまっていく。「ハレ」の祭りでは、そんなこわばった空気は一気に除去され、少々騒いだり無礼なことをやったりしても許され、責任を問われない。だから、日本人は昔から、日常の繰り返しの中で蓄積される不満やストレスを晴らし、スッキリするために、時折行われるハレの「祭り」の場で大騒ぎする、ということを繰り返してきた。
しかし、地域に現存する祭りは、担い手の高齢化等により、厳しい状況に追い詰められてもいる。そんな祭りであるが、今盛んに行われて所もある。それがネットの世界である。ネット上での「祭り」は、炎上のことであるが。ということはつまり、批判や非難が殺到する「炎上」状態を、日常の鬱憤やストレスを晴らす、ハレの「祭り」と捉え、カタルシスを通して「楽しんで」いるのだ。
これは、炎上には「祭り」でしか味わえない何ともいえない「魅力」があるということを意味している。つまり、炎上は「表層的」には、批判対象となる写真や失言に対する「否定的感情」の表出のように見えているが、それは単なる酒の「アテ(肴)に)過ぎないのだ。「アテ」は単に酒を楽しむための付属物に過ぎないように、ネット住人達は批判を「アテ」にして「祭り」に興じているに過ぎないわけだ。
以上のような、現代人のツッコミ体質とネット上の炎上の共犯関係について、作家の佐藤健志は以下のように表現している。
「交感神経系」は、英語では「sympathetic nervous system」と呼ばれ、SNSと省略される。しかるに近年における炎上の主要な媒体である「ソーシャル・ネットワーキング・サービス」(social networking service)も、省略はSNSとなる。
現在の炎上は、「SNS(交感神経系)の刺激による感情の洪水が、SNS(デジタル技術を基盤とする社会的ネットワーク)にあふれ出すこと」とも形容できるだろう。そして洪水とは「たまったものの放出」なのだから、炎上がカタルシスを伴うのも当たり前と言わねばならない。
この文章を読んだ時、思わず膝を打った。それぐらい見事に、現代人のツッコミ体質とネット上の炎上の共犯関係が表現されている。
僕たちのツッコミ体質は、前回に述べたデジタル・ネイティブによって、より強固なものにされている。しかし、だからと言って、この共犯関係を終わらせるためだけに、デジタルを切り離すことはできない。前回にも述べたように、持ってしまった今、もう手放せない。であるならば、このような状態である、ということを理解し、これからをどう生きるのか、ということを考えていきたい。
引用・参考文献