小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

インディペンデントという矜持

 かなり面白い本を見つけることができた。ということで、かなり前のめりになりながら、今回の記事を書くこととなっている。

 今回、紹介するのが『インディペンデント・ブルース』という一冊。インディーと呼ばれる団体で活躍している8人のプロレスラーの生き様に触れることのできる一冊となっている。僕としては、新井健一郎(アラケン)と田中将人が取り上げられていて嬉しかった。

 とにかく、8人のプロレスラーの生き様や考えていることに触れることができ、プロレスファンとしてはとても興味を持って読み進めることができる。著者のジャスト日本が丁寧にそれぞれのレスラーを取材していることも伝わってくる。

 読んでいて、目を惹いた箇所を少し引用してみる。

「プロレスが下手というのは体の使い方を分かっていない人ですね。運動神経がいいから巧いというわけじゃないんです。運動神経がなくても、体の使い方が分かっているからプロレス巧い人はいるし、プロレス頭がある人は運動神経がなくても面白い試合をしますよね。プロレスが下手な人は起きる動作ひとつとってもぎこちない。ロープへの走り方もそうですし、あと自分の居場所が分かっていないんですね。試合をしていて、なんでそんな端っこで試合をしているのって。リングの中央で試合をするのがベターなわけで」

  これは、レスリングマスターとも呼ばれるディック東郷の言葉である。この言葉からプロフェッショナルとはどういうことなのか、ということを読み取ることができる。このようなことはTAJIRI鈴木みのるが近しいことを著書の中で語っていた。やはり、プロフェッショナルだからこそ、思うことなのかもしれない。

プロレスラーは打撃ができて、飛び技や関節技ができて、大体ドラゴン・スープレックスで試合を決めるというイメージですよね。でも、そんなんで面白かったやつは一人もいない。結局、我々は見世物なんです。得意な型になれば抜群に強いけれど、ウィークポイントを責められると負けてしまう。そういう面白い部分をお客さんは期待しているんじゃないかと。強いことは何よりも大事。だけど、面白さがなければお客さんはチケットを買ってくれない。

  これは、変態プロレスラーとも呼ばれる佐藤光留の言葉である。見せ方というか見られ方を意識しているということだ。ここに無頓着ではプロレスラーを名乗ることができないだろう。このようなこともTAJIRI鈴木みのるが近しいことを著書の中で語っていた。佐藤光留鈴木みのるの影響を受けていると思うので、当然なのかもしれないが。

 他にもあるのだが、長くなってしまうので割愛する。是非とも本書を読んでみて、他のレスラーの生き様や考え方を読んでほしい。

 題名は「インディペンデント・ブルース」となっている。ブルースとは、悲しみや哀愁を表現するものである。本書で表現されているものはブルースに聴こえるところもある。しかし、決して悲しみや哀愁だけではない。レスラーたちの矜持が垣間見えるものにもなっている。だからこそ、味わい深い一品となっている。

インディペンデント・ブルース

インディペンデント・ブルース

 

ポスト・コロナの学校現場㉙「自己規制を超えるには」

 

 新型コロナウイルスの感染が、全国的に再び拡大してきているように感じる。第三波と言えそうな様相である。なかなか好転していかない。

 このような状況になってくると、当然学校現場も無縁ではいられなくなる。再び、教育活動の見直しが迫られる。文部科学省から対応マニュアルのようなものが出されてはいるが、その通りに全てを整えられるわけではない。

 教育活動を見直すとなると、縮小や中止ということになるであろう。それは致し方のないことである。

 このような流れになっていくのだが、本当にそれでいいのだろうか。もっと言うと、それは学校がとやかく言われないようにするための逃げの一手ではないだろうか。つまり、自己規制が目的になっているというわけだ。

 もちろん、現在のような状況では、いつ何時新型コロナウイルスの猛威が襲ってくるかわからない。だからこそ、用心深くなってしまう。そして、何か起こってしまうと大変なこととなる。これはわかる。

 だけど、再び問うのであるが、本当にそれでいいのだろうか。自己規制でもなく、楽観視するのでもない道はあるのだろうか。自己規制を超えることはできるのだろうか。現場にいる者として知恵を絞る必要があるだろう。

 

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ゆとりですがなにか

今週のお題「もう一度見たいドラマ」

 

 もう一度見たいドラマは、2016年に放送されていた「ゆとりですがなにか」だ(日本テレビ)。このドラマを見ることにより、自分のゆとり世代マインド?  なるものが呼び起こされた。そのことが、最近ブログの連載記事としている「ゆとり世代教育論」につながった。僕としては思い入れ深い作品である。

 キャストはなかなかの顔ぶれである。主演が岡田将生メインキャストとして、先日結婚を発表された松坂桃李柳楽優弥が名を連ねる。そして、脇を安藤サクラ吉田鋼太郎ブレイク前の吉岡里帆、仲野太賀が固める。そして、忘れてはならない脚本家は大河ドラマまで手掛ける宮藤官九郎よくこれだけの方々が揃えたな、と思うような布陣である。
 ドラマのタイトルになっている「ゆとりですがなにか」という言葉は、まさしく僕たちゆとり世代が一番吐きたい言葉である。そうは思いつつも「ゆとりですがなにか」という言葉で逃げ道を作っているようにも感じている。僕としてはそのような思いを抱いていた。
 そんな思いに応えてくれるように、脚本を手掛けた宮藤官九郎は以下のように語っている。

彼らの口から出る「ゆとりなんで」と俺の発する「最近の若い奴らって」、実は同義語なんじゃないか。世代間の思考停止を招く呪いの言葉なんじゃないか。考えるのを諦めず、ひたすら掘り下げたら何か見つかるんじゃないか。

  ゆとり世代である、僕たちもこの呪いの言葉を吐いていた。でも、これは思考停止に陥る呪いの言葉である。それをどこかで止めないといけない。そして、考えるのを諦めず、掘り下げてみると何かが見つかるのではないだろうか。

 宮藤官九郎は、その何かを見つけたのかもしれない。僕にはそう思えるような台詞を見つけたので紹介する。

子供は、親を選べないし名前も選べない。だから産んでくれた親や、名前をつけて呼んでくれた家族を信じて、ついて行くしかないんですよね。ゆとり世代もそう。作って名前つけたのは大人なんだから、ちゃんと面倒見るべき、ですよね。そして今度はウチらが社会を作る番、子供を産んで名前をつける番…ですよね

  この言葉は島崎遥香が演じるゆとりが柳楽優弥が演じるまりぶに宛てた手紙の一節である。ゆとり世代として、心ない言葉を投げかけてくる大人への恨み節である。そこに注目するのではなく、最後の一文こそが、宮藤官九郎の見つけたものを表している言葉ではないだろうか。ゆとり世代と呼ばれたゆとり世代が今度は社会をつくる番である。だからこそ、思考停止に陥らず社会をつくる側になっていくことが大切になる。そんなことが伝わってくる台詞である。

 こんな記事を書いていると、本当にもう一度見たくなってきた。まだ見たことのない方は是非ともこの機会に見てみてください。

ゆとりですがなにか

ゆとりですがなにか

 

ゆとり世代教育論「ツッコミ体質」

ツッコミ体質

 僕たちが生きてきた、生きている社会は、「格差社会」と言われている。「勝ち組」「負け組」という言葉も流行った。また、「不寛容社会」とも言われる。さらに、「分断社会」とも言われる。格差や不寛容や分断が社会に浸透することによって生まれるもの、それは端的に言えば「自己責任」という考え方である。僕たちは「自己責任」という言葉をよく耳にした、また自分たちも使用した。

 さて、ここで考えてみる。この「自己責任」という言葉を、いつ頃から耳にするようになったのだろうか?

 調べてみると、2004年の新語・流行語大賞のトップテンに選ばれていることが分かった。同年に起こったイラク日本人人質事件での報道が大きく影響したようである。

 自分が行ったこと等に自分が責任を持つ、という姿勢は大切であるとは思う。そういう意味で考えると「自己責任」は必ずしも悪いものではない。だけど、「自己責任」という言葉が使われる時の多くが、「オレは責任を取らないよ」と弱者に責任を押しつける保身と欺瞞の態度の表れとなっている。これが問題だ。

 そして、いつも「自己責任」という所に帰着させてしまうと、正直しんどい。なぜなら、自分で行ったこと等の結果を常に突きつけられることになるからだ。また、自分が行うことを自分自身で全て探し出さないといけないからだ。

 こんな社会を生きている僕たちは、自分の「安心安全」を確保するために、危機を回避するために「自己責任」という言葉を巧妙に用い、他者との関わり自体を回避するようになった。そして、「安心安全」と引き換えに孤独を手にすることになった。

 おかげで、この国に住む人々はすっかり不機嫌を日常とする人々となってしまった。結果として、十分な満足を得られないようなサービスしか提供されなかった時にはクレームをつけても良いのだという「空気」が醸成されてしまった。税金で喰っていながら未だに安全神話の中で生きているように見える公務員に対してはいくらバッシングしても良いのだという、「空気」が醸成されてしまった。常にバッシングの対象を見つけ、少しの「悪」の部分を叩き、自分たちが優位に立とうという心理が蔓延しているのだ。

 このような社会の様子を、槙田雄司(マキタスポーツ)は、「一億総ツッコミ時代」と形容した(槙田、2012)。

 悲しいことに、今の日本は、困っている人たちが「いかに嘘つきであるか」を暴き立てることに意味のある社会になってしまった。弱者を叩き、彼らの利益を切り取れば、自分の負担を軽くできるからだ。お年寄りの利益、若者の利益、何かを減らせれば、それぞれ減らされていない方が得をすることになるからだ。

 だが、このような「一億総ツッコミ時代」、クレームをつける者たちに、内田樹(2017)は警鐘を鳴らしている。

クレームをつければつけるほど、クレーマーは社会的に下降してゆく。そんなの少し考えればわかるはずなのに、「一億総クレーマー」を表現する方向にメディアは棹さしている。それは実現的には「一億総下層化」と同じ意味なんです。怒れば怒るほど、理不尽な要求をすればするほど、人間はその社会的価値を失って、階層を下降してゆくことになる。その当たり前のことを、メディアは決してアナウンスしない。

「嫌なやつ」は社会的に上昇できないんです。階層社会では上位にたどりつけるのは「いい人」だけなんです。「知らないことを知らないと言える人」「他人の仕事まで黙ってやる人」「他人の失敗を責めない人」だけが、相互支援・相互扶助のネットワークに呼び入れられて、そこでさまざまな支援を受けることができる。

 この言葉を僕たちは重く受け止めないといけないと感じている。常にツッコミを入れ、そしてクレームをつける。もし、立場が変わった時に、ツッコミを入れ、クレームをつけていた者は、甘んじて違う者からのツッコミやクレームを受け容れるのだろうか? その時は、一転して受け容れるということは難しいだろう。

 このような負の再生産のスパイラルをどこかで止めないといけない。それは正に今だ。そんな思いを強く抱くようになっている。

 

祭りに興じる

 祭りは楽しいものだ。昔から祭りなどの非日常の時間を「ハレ」と呼び、そして日常の時間を「ケ」と呼んでいる。「ケ」の日常では様々なルールに縛られ、ルール違反を行えば何らかのペナルティがやってくる。人々はそうやって生きていく他ない、ということも知りながらも、やはりストレスはたまっていく。「ハレ」の祭りでは、そんなこわばった空気は一気に除去され、少々騒いだり無礼なことをやったりしても許され、責任を問われない。だから、日本人は昔から、日常の繰り返しの中で蓄積される不満やストレスを晴らし、スッキリするために、時折行われるハレの「祭り」の場で大騒ぎする、ということを繰り返してきた。

 しかし、地域に現存する祭りは、担い手の高齢化等により、厳しい状況に追い詰められてもいる。そんな祭りであるが、今盛んに行われて所もある。それがネットの世界である。ネット上での「祭り」は、炎上のことであるが。ということはつまり、批判や非難が殺到する「炎上」状態を、日常の鬱憤やストレスを晴らす、ハレの「祭り」と捉え、カタルシスを通して「楽しんで」いるのだ。

 これは、炎上には「祭り」でしか味わえない何ともいえない「魅力」があるということを意味している。つまり、炎上は「表層的」には、批判対象となる写真や失言に対する「否定的感情」の表出のように見えているが、それは単なる酒の「アテ(肴)に)過ぎないのだ。「アテ」は単に酒を楽しむための付属物に過ぎないように、ネット住人達は批判を「アテ」にして「祭り」に興じているに過ぎないわけだ。

 以上のような、現代人のツッコミ体質とネット上の炎上の共犯関係について、作家の佐藤健志は以下のように表現している。

「交感神経系」は、英語では「sympathetic nervous system」と呼ばれ、SNSと省略される。しかるに近年における炎上の主要な媒体である「ソーシャル・ネットワーキング・サービス」(social networking service)も、省略はSNSとなる。

現在の炎上は、「SNS(交感神経系)の刺激による感情の洪水が、SNS(デジタル技術を基盤とする社会的ネットワーク)にあふれ出すこと」とも形容できるだろう。そして洪水とは「たまったものの放出」なのだから、炎上がカタルシスを伴うのも当たり前と言わねばならない。

 この文章を読んだ時、思わず膝を打った。それぐらい見事に、現代人のツッコミ体質とネット上の炎上の共犯関係が表現されている。

 僕たちのツッコミ体質は、前回に述べたデジタル・ネイティブによって、より強固なものにされている。しかし、だからと言って、この共犯関係を終わらせるためだけに、デジタルを切り離すことはできない。前回にも述べたように、持ってしまった今、もう手放せない。であるならば、このような状態である、ということを理解し、これからをどう生きるのか、ということを考えていきたい。

 

引用・参考文献

 

一億総ツッコミ時代 (星海社新書)

一億総ツッコミ時代 (星海社新書)

  • 作者:槙田 雄司
  • 発売日: 2012/09/26
  • メディア: 新書
 
18歳からの格差論

18歳からの格差論

  • 作者:井手 英策
  • 発売日: 2016/06/16
  • メディア: 単行本
 
街場の読書論 (潮新書)

街場の読書論 (潮新書)

  • 作者:内田 樹
  • 発売日: 2018/09/05
  • メディア: 新書
 
対論 「炎上」日本のメカニズム (文春新書)

対論 「炎上」日本のメカニズム (文春新書)

 

10年後の教師の仕事

 『学び合い』でおなじみの西川純先生の一冊。題名は「2030年教師の仕事はこう変わる!」である。

 2030年となると、あと10年後のことである。10年後というのは、少し遠い未来のように思われるが、そんなことを思っている内にやって来る未来でもある。また、10年後の未来のことは、現在少しずつ胎動が始まっていることもあるのではないだろうか。

  西川先生はこの本の中で、教師の仕事の変化をいくつも述べられている。その一つを引用する。

大学などでは既に起こっていることですが、公立学校が独立行政法人化し、教育公務員が非公務員になります。そして、日本全体の雇用体系と同様に、私立学校も含めて必ずしも終身雇用は保障されなくなります。つまり、教師も他の職種と同様に、自分の能力に見合った学校を渡り歩くことが求められます。

その時に大事なことは、AI(人工知能)・ロボットに置き換えられないマネジメント能力、ファシリテーション能力を持てるか、否かです。

教師の指示に従わせるという従来の指導のあり方が既に通用しなくなっているだけではなく、「教える」というこれまでの教師にとって重要であった職能だけでは、もはやAIやインターネットに置き換えられてしまうということです。

  公立学校が独立行政法人化するというのは、本当にそうなるのだろうか!? と思った。はっきりとは分からないからか、何となく不安になってしまう内容である。

 後段のAI・ロボットにやインターネットに置き換えられるというのは、そうなっていくだろうな、と思う。GIGAスクール構想により、一人一台のパソコンが配備される。きっと、そこではAIドリル等が使われることになるだろう。また、教育YouTuberと呼ばれる者の活躍もある。授業動画を誰でも視聴することができる。もしかすると、そのような動画配信により授業が進められることになるかもしれない。

 だからこそ、「教える」というこれまでの教師にとって重要であった職能よりも、マネジメント能力、ファシリテーション能力というものが求められるようになるだろう。

 10年後の未来は誰にも分からない。でも、こうなるのではないか、と予想することはできる。そして、その予想から考え、準備することはできる。是非とも、本書に目を通し、10年後の教師の仕事を考えるきっかけとしてみてはどうだろうか。

 

2030年 教師の仕事はこう変わる!

2030年 教師の仕事はこう変わる!

 

ポスト・コロナの学校現場㉘「寛容な心で」

  新型コロナウイルス感染拡大防止に努めているが、なかなか状況は好転してかない。全国各地で毎日のように新型コロナウイルスの感染者が出たことが報道されている。また、政府が行っている「Go To キャンペーン」が新規予約を停止する等、また厳しい状況に向かっているようにも感じられる。できることは、手洗い・うがいやマスクの着用等だろうか。

 このように書いて一週間が経った。しかし、やはり事態は好転しない。すごく悪くなったわけではないが、悪化するのは時間の問題のように感じられる。不安と隣り合わせの日々である。

  このような状況になってくると、現在過ごしている日々のことが、当たり前でなくなってくるかもしれない。やっと、コロナ禍というこにも慣れてきつつあるにも関わらず。学校現場としても、新たな判断や厳しい判断をせざるを得ない日が、近いうちにやって来るかもしれない。

 さて、このような状況において必要なものの一つが、題名にも書いた「寛容な心」ではないだろうか。

 そんなことを思い至るようになったのは、東京大学国際基督教大学名誉教授である村上陽一郎の論を読んだからである。その箇所を引用してみる。

私は、「寛容」の定義の一つとして、人間が判断し行動するとき、「ベター」と思われる選択肢を探すべきであって、「ベスト」のそれを求めるべきではない、というルールを認めることである、と書いておきたい。

  これは判断する者と判断を受け入れる者(評価する者)、どちらも射程に入ったものである。判断する者は、「ベスト」を探しつつ、より「ベター」を選択する必要がある。往々にして「ベスト」を求め過ぎ、判断が遅くなることがある。そういうことにならないように気をつけたい。判断を受け入れる者は、「ベスト」を求め過ぎないようにする必要がある。結果を見て評価することはできる。もちろん、それ自体は悪いことではない。しかし、その結果を厳しく評価することにより、判断する者の判断力を削いでいるかもしれない、ということに気をつけないといけない。

 「寛容な心」なんてそんなものは毒にも薬にもならない、と思われたかもしれない。確かに、すぐさま何かしらの効果が得られるような代物ではない。しかし、僕は「寛容な心」が、コロナ禍だけでなくこれからの社会にとって必要なものだ、と思っている。

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ご褒美なんてあげますか?

今週のお題「自分にご褒美」

 

 自分へご褒美をあげるという感覚はあまりない。ご褒美というより、自分を甘やかせることは多々ある(笑)。それは、だいたい暴飲暴食である。

 ご褒美をあげるという感覚があまりない、ということについてもう少し考えてみる。
ご褒美というものは、何か善い行いをした時や頑張った時に与えるものである。となると、自分へご褒美をあげるということは、自分で自身の善い行いや頑張ったことを褒めるということになる。
 しかし、このような発想にならない。いや、別に謙虚でもなければ自己評価が低いわけでもない。単に自身を褒めるということに違和感を覚えるだけである。
僕だって自身のことを褒めることはある。でも、ご褒美をあげるということはしない。こういうことだろう、と考えた。
 ご褒美をあげるという感覚ではないが、強いてあげるなら、読みたい本を買うということがそれに近いことである。これはご褒美というか、唯一の楽しみである。読みたい本を買う、ということで満足でき、安上がりである(笑)。
 自分で自身にご褒美をあげたい、と思えるような時が来ることはあるだろうか? これからの自分に期待しておくことにしよう。

11月29日「情熱大陸」を視聴して

 教育YouTuberはいるだろう、とは想像できていたが、こんなにも盛り上がっている? とは知らなかった。登録者が100万人以上いるというのは、トップYouTuberと言っても過言ではないだろう。
 教育YouTuberの葉一は自身で語っていたが、「勉強が苦手な子」に向けて動画を配信しているようだ。だから、勉強が苦手な子にとってわかりやすくなるように工夫しながら授業を創られている。
 また、YouTubeで授業動画を配信するきっかけも語っていた。塾講師をしている中で、「家庭環境(所得)により教育環境が変わってしまう」という問題に直面したからだそうだ。
 この二つのことから思ったことは、熱い思いがある方なのだな、ということ。学校とYouTubeという場は違うが、思いが重なるところである。
 番組の終わりの方で、ナゾトキでおなじみの松丸亮吾と対話している場面があった。そこで、松丸亮吾が、「教師は教える人ではなく一緒に前へ進む人へと変わる」のようなことを話していた。これはまさにそうだな、と思った。というより、心ある教師はシフトチェンジを進めているところである。
 番組を通して思ったことは、子どもを変えることができるのは、授業そのものではなく、授業を行う教師の在り方だということ。もちろん、授業には教師の在り方が現れるので、両者は相互補完的な存在である。もう少し簡単に言うと、子どもを変えるのは人の心である、ということ。だから、手段はどのようなものであってもよい。子どもの心に何かを届けられるのであれば。
 自分は全然知らないところで、熱い思いを持って教育を行っていることを知った。学校現場にいる者として考えさせられることが多くあった。そして、感化されることがあった。
 この映像を観ていない方は、是非とも観てほしい。それぐらいの内容のものであった。

「深い学び」って?

 今年度より小学校では新学習指導要領が全面実施されている。そのキーワードの一つが「主体的・対話的で深い学び」である。ここにある「深い学び」というのがいまいちわからない、ということをよく聞く。それは僕もそう思っている。

 でも、この「深める」という言葉は便利な言葉でもある。「深める」や「深く」と、指導案等に書いてあると何となく考えているように思える。だけど、少し考えてみるとこの「深める」や「深く」とはどういうことなのか、という具体像は浮かび上がってこない。

 ということで、「深い学び」って何だろうか、と考えている。そこで、一冊の本を手に取ってみた。それが『国語授業における「深い学び」を考える』である。

 小学校の国語授業をリードする存在である、筑波大学附属小学校国語部の先生方と奈須正裕先生の座談会が収録されている。これがとてもよかった。特に奈須正裕先生の言葉には納得させられることが多かった。

 その箇所を少しになるが引用する。

「深い」は逆に言うと一番シンプルで、要するに意味的な処理になれば深いと。意味が発生すれば、それは深いのだと。

意味が発生するというのはどういうことかというと、どういう形でもいいから子どもがもっている知識や経験と、今日学んでいることの間に関連が見えるという話です。意味的に関係づいてくるということ。それを、意味処理が深いと考えるのです。つまり、子どもからすれば見聞きしたり、経験したりして、すでにそこそこ知っていることと、今日のことがつながってくると、「あっ、それね」と当たりがつく。「わかった」というのはそれなんです。わかったというのは、子どもがすでにもっている知識と今日学んでいることが何らかの形で合致するとか、符合するという話で、意味が発生するというのは素朴にそういうことだと考えます。したがって、深い学びというのはいろいろな意味で知識が関連づいてネットワーク化するとか、構造化するとかいうことだと素朴に考えればいいと思います。

  「深い学び」について端的に説明されていて、わかりやすかった。

日常生活という言葉は諸刃の剣で、私自身は教科というのは非日常だから意味があると思っていて、これはずっと以前から主張していることです。教科というのは日常の中にある事物現象を非日常的な見方で見るからおもしろい。

               (略)

国語でもそうで、説明文を区切って読むということは日常生活ではしないわけです。だいたいの意味が取れればいいですから。それを文体とか、語り手とか、構造に注目しながら読むというのは、少し見方を変えれば、日常触れているものの奥に、そんな深みがあることを知ることです。

そして、同じ命題的意味や情報を伝えるにも、文体とか、構造とか、語り口とか、レトリックとかを工夫することによって、趣が変わるとか、筆者ならではのものが醸し出せるという世界を知ることによって、そういう世界に子どもが惹きつけられていくというか、そういう世界に憧れをもって、そういうことができるようになりたい、あるいはそれを発揮したいときに、できるようになるだけの力を、今勉強してつけたいと子どもは思うようになる。子どもとは本来そういう存在であると信じたい。

  国語科における「深い学び」についても具体例を挙げながら説明されていた。

 この一冊を読めば、「深い学び」について理解することができる。また、国語科における「深い学び」についても理解することができる。つまり、一度で二度おいしい一冊となっている。

 さらに、国語授業を真剣に考えている全国の実践家の考えや実践も読むことができる。こちらも明日の授業づくりの助けになること間違いなしである。

 国語授業を少しでも変えたい、と思っている者にとって必読の一冊に間違いないであろう。

ポスト・コロナの学校現場㉗「主体的に考えたい」

  新型コロナウイルス感染拡大防止に努めているが、なかなか状況は好転してかない。全国各地で毎日のように新型コロナウイルスの感染者が出たことが報道されている。また、政府が行っている「Go To キャンペーン」が新規予約を停止する等、また厳しい状況に向かっているようにも感じられる。できることは、手洗い・うがいやマスクの着用等だろうか。

 このような状況であるので、「緊急事態宣言の発令」ということが視野に入ってきているようだ。実際に発令になるかはわからないし、やはり二の足を踏んでしまうだろうな、と思う。でも、発令されてもおかしくない状況になってきているということだ。

 と、なると学校現場としては「一斉休校」ということが頭をよぎるようになる。文部科学大臣が「全国一斉休校はない」との言葉を発しているようではある。まあ、これもどうなるかわからない。だけど、確かに全国一斉休校はないのではないか、と考えられる。それぞれの自治体で判断されることとなるだろう。

 こうなってくると、現場としては右往左往することになることが予想される。これといった方針のようなものを、誰も打ち出さないということだから。現場としても判断に困ることがこれからますます増えてくるだろう。有事であるから仕方のないことかもしれない。

 だからこそ、現場にいる者として「主体的に考える」ことを怠りたくない。どこかで誰かが答えを持っているということに楽観的にならず、自分なりにでも答えのようなものを出すことを意識したい。もちろん、一人で考えられることはたかが知れているので、学校全体で考えたい。

 これは現場にいる者の矜持として大切にしたいことである。忘れないように書き残すことができてよかったかな。でも、厳しい状況は続くことに変わりないのだけど。

 

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ありがとうって伝えたくて

今週のお題「感謝したいこと」

 

 「ありがとう」と、なかなか伝えられないことがある。何となく気恥ずかしいという思いがするからだ。相手が身近になればなるほど、そのような思いは大きくなる。

 ということで、このような機会がないと伝えないであろう相手への「ありがとう」を綴ることとする。こんなところに綴ったところで、伝えたい相手に伝わることはないのだろうけど…。まあ、そんなこと言ってないで、「ありがとう」を伝えることにしよう。
 まずは、「家族」に、ありがとう。家族のみんながいるから、楽しい思いができる。笑顔になることができる。もちろん、ポジティブなことだけでなく、うんざりすることやうっとうしいことだってある。でも、共に生活している以上、良いことも悪いこともある。そんなこと全てをひっくるめるのが「家族」なのだ、と思う。いろいろな思いをくれる「家族」へ、ありがとう。
 次に、「学校の子どもたち」に、ありがとう。みんなが学校へ来てくれるからこそ、僕は教師でいられる。そして、みんなと教室でうにゃうにゃしながら、あーでもないこーでもないと考えていることが楽しい。これは大変だし、なかなか報われることではないのだけど、僕にとってはやりがいになっている。そんな思いをくれる「学校の子どもたち」へ、ありがとう。
 最後に、このブログをご覧になっている方々に、ありがとう。みなさんがアクセスしてくださることがモチベーションとなります。これからもご愛顧よろしくお願いします。
 僕なりにいくつかの「ありがとう」を書き綴りました。書いて思うことは、やっぱり気恥ずかしいものですね(笑)。

ポスト・コロナの学校現場㉖「差別・偏見を退ける」

  新型コロナウイルス感染拡大防止に努めることが続いている。これまで「ポスト・コロナの学校現場」と題し、数々の記事をアップしてきている通りである。感染拡大防止に努めると共に、学校現場で進めていることは「差別・偏見を退ける」ということである。

 文科省から八月に「新型コロナウイルス感染症に関する差別・偏見の防止に向けて」という趣旨のメッセージが発表された。それは子どもたち向けのものや教職員向けのもの等があった。国としてもそこには気をつけたい、と思ってくれているようで安心した。

 と、言いながら八月では遅い気もするのだが…。もっと早い時期に表明してもよかったのではないだろうか。

 閑話休題文科省についての話は終わろう。

 新型コロナウイルスに感染することは、確かに怖ろしい。できる限り感染したくない。でも、それよりも怖ろしいのは、恐れから来る差別や偏見だ、と思う。感染拡大を防ぐと共に差別や偏見も無くしていかないといけないだろう。

 そう思えば、教育現場にいる者としてできることは多くあるのではないか、と考える。新型コロナウイルスを正しく理解できるような機会をつくる。その時には、日本赤十字の「新型コロナウイルスの3つの顔を知ろう!」というものが使いやすいだろう。イラストもあり、子どもたちにとってわかりやすくなっているように思う。

 そこで、一番怖いのは「差別をすること」「偏見を抱くこと」であるということを伝えたい。差別・偏見が一番人を追い詰めることになるのではないか。僕はそう考えている。だから、繰り返しになるが、新型コロナウイルスを正しく理解できるような機会をつくることは必要になるだろう。

 子どもたちだって、いろいろな情報を耳にしているので、確かに一定の理解をしていることだろう。しかし、鵜呑みにしてしまっていることがあるかもしれない。また、差別・偏見につながる可能性があることに自覚的ではないかもしれない。だからこそ、新型コロナウイルスについて丁寧に考える機会をつくりたい。

 そのことがコロナ禍をより良く生きることにつながるだろう。さらに、差別・偏見を退けるという態度の醸成につながるだろう。そうなれば、新型コロナウイルスだけでなく、様々なことに対しての意識というものも変わるのではないだろうか。

 

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コミュニケーションを学ぶ

 「コミュニケーション」という言葉を耳にすることは多い。そこで、「コミュニケーションって何ですか?」と、問われるとどのように答えるだろうか。きっと、それなりに答えることはできるだろう。しかし、本当に僕が答えていることは正しいというか、妥当性があるかはわからない。「コミュニケーション能力」や「コミュニケーションスキル」のような言葉に対しても同様である。

 そう思っていると、何だか居心地が悪くなってきた。だから、「コミュニケーション」という、使っている割にはよくわかっていないことについて自分なりの考えを持ちたい、と思い手に取ってみた一冊を紹介したい。

 ちくまプリマー新書のシリーズということで、高校生ぐらいから読めるようにというコンセプトになっている。表現こそ平易であるが、内容は決して平易ではない。だから、意外と読むのに時間がかかった。

 少しになるが気になった記述を引用する。

コミュニケーションは、ある面ではスキルとして習得されるものですが、それだけではなくマインドの面も持つ、ということです。そして、そのどちらが大切なのかという議論は不毛です。スキルとしての面も大切ですし、マインドの面ももちろん大切です。マインドだけでコミュニケーションはできませんし、スキルだけで行われるコミュニケーションは空虚で無意味です。

つまり、以下の三点を指摘することができます。

(1)コミュニケーションは技術もしくは知識として習得されうる。

(2)ただし、コミュニケーションの技術もしくは知識を習得するためには、まずコミュニケーションへの意思が必要である。

(3)さらに、コミュニケーションを技術もしくは知識として習得するだけでは十分ではなく、それを越えて、コミュニケーションするということの意味を考えることが重要となる。

  この記述に出会えたことだけで、この本を読んでみてよかった、と思える。

 コミュニケーションというと、スキルに目が行きがちである。巷にはコミュニケーションスキルに関する本は溢れている。もちろん、スキルが必要ないわけではない。むしろ、スキルはあるに越したことはないだろう。

 しかし、そこで留まっているだけではいけない。著者が指摘するように、コミュニケーションへの意思が必要になる、またコミュニケーションするということの意味を考えることが重要となる。

  手前味噌になってしまうが、僕の「コミュニケーション」についての意識は、確実にコミュニケーションするということの意味を考えることにへと移ってきている。つまり、けっこういい線行ってるのだ、と思う(笑)。もちろん、ここはスタート地点に過ぎないのだけど。

 そんな「コミュニケーション」という言葉を丁寧に解きほぐしてくれている一冊である。スキル面はもちろん、理論面にも触れられているので読み応えはばっちりである。僕としては、これを端にコミュニケーションということを学び進めたい、と思える一冊であった。

 

コミュニケーションを学ぶ (ちくまプリマー新書)

コミュニケーションを学ぶ (ちくまプリマー新書)

  • 作者:高田 明典
  • 発売日: 2012/09/01
  • メディア: 新書
 

ピザの思い出

今週のお題「ピザ」

 

 ピザは、まあまあ好きです。でも、デリバリーやテイクアウトしてまで食べようとは思わない。テーマパークに行った時に食べるぐらいか。

 それよりも、子どもの頃に食べていた手作りピザの印象が大きい。
 夏休みや冬休みのような長期休暇になると、もちろん学校での給食がない。だから、母親たちにとっては昼ご飯に、子どもに何を食べさせるのかを悩むこととなる。それは僕の家庭でも同じであったのだろう。
 お互いに家で昼ご飯を食べるということに飽きてきた頃に、手作りピザを食べていた。手作りは大変だったとは思うが、子どもの僕にとっては楽しみのメニューであった。おいしいはもちろんだが、手作りなので自分でトッピングを乗せられることが楽しかった。お手伝いと称しながら楽しむことができた。
 そういう思い出があるので、あまりピザをデリバリーしたり、テイクアウトしたい、と思わない。僕にとっては、ピザというと手作りのものなのである。
 もう手作りのピザを食べることはないように思うが、僕にとっては大切な思い出の味の一つである。

自分が持ってるものをギンギンに尖らせておく。トップに居続けるにはそういう〝本当のこと〟が必要。

自分が持ってるものをギンギンに尖らせておく。トップに居続けるにはそういう〝本当のこと〟が必要。(by鈴木みのる)

 

 トップレスラーは、それなりに何でもそつなくこなしている。もちろん、そこに至るまでにはかなりの努力を積んだことだろう。そして、トップレスラーはその中でギンギンに尖っているところがある。このレスラーと言えば、これだというのが出てくるぐらいに。

 ギンギンに尖らせるためには、自分は何を尖らせられるのか、ということを把握しないといけない。自分ができることから出発しないといけない。それは、もしかすると自分が希望しているようなものではないのかもしれない。だけど、そこから出発しないといけない。そうでもないとギンギンに尖らせるまではいかないだろう。

 ギンギンに尖らせるには努力が必要になることは間違いない。それに加え、ギンギンに尖らせるという覚悟も必要になる。何かをギンギンに尖らせるということは、ある程度他のものをおざなりにするということでもある。つまり、ギンギンに尖っているものの横に、丸まっているものもあるということだ。これはけっこう怖いことである。だけど、ギンギンに尖らせるというのは犠牲というか我慢する必要もあるのではないだろうか。

 そうは言いつつも、トップに居続けようと思えば、以上のようなことを考え、ギンギンに尖らせる工程を経ないといけない。そういうことが、鈴木みのるの言う〝本当のこと〟なのだろう。