小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

もらいたいけども

今週のお題「チョコレート」

 

 今日はバレンタインです。気にない素振りはしていますが、やっぱりソワソワしてしまっている(笑)。まあ、でも今日は休日なので、ソワソワすることも例年よりは少ない。いくつになっても、バレンタインにチョコレートをもらうと嬉しいし、何ならもらいたいとは思っている(笑)。

 という前置きをしていて何ですが、チョコレートって食べますか? 食べなくはないと思いますが、日常的に食べますか?
 僕は日常的には食べません。たまに買ってみたりすることはないわけではない。それよりも家にチョコレートがいつの間にかあって食べるということが多い。 また、ファミリーパックのような個包装されているものをおすそわけしてもらって食べるということが多い。
 だから、バレンタインにチョコレートをもらうと盛大に残っていくことになる。何せ日常的に食べないので、他のものを食べてしまう。そして、忘れた頃に食べないといけない、と思い食べきる。それが例年のパターンである。
 ということで、チョコレートよりもクッキーとか他のものだと嬉しい。チョコレートでもいいが、できるだけ駄菓子のような食べ慣れているものがいい。それだと割りとすんなり食べられるのだと思う。
 わかってます、わがままだということは。わかってます、自分勝手だということは。にもかかわらず、何かほしいとは思っている(笑)。先に謝っておきます、すみません。
 もらえたものは、ありがたくいただくことにしないとなー。

NOAHの象徴

 僕にとってのプロレスリング・ノアの象徴は三沢光晴ではなく、小橋建太でもなく、秋山準でもなく、KENTAでもなく、丸藤正道である。そんな、丸藤正道のプロレスラー生活が詰まった一冊を紹介する。

 僕にとって丸藤正道は好きなプロレスラーの一人である。あまり、NOAHの試合自体は見たことはないが、丸藤の存在は知っていた。もちろん、身体能力の高さというのもに惹かれたのはある。しかし、ただただ身体能力の高さだけではにように感じていた。

 それよりも発想というか閃きというかに惹かれたように思っている。その発想や閃きを実現可能にする身体能力があるのには変わりないが。僕が特に気に入っているのは、時間差ロープワークと不知火・改である。

 時間差ロープワークは最近では珍しいものではない。でも、これをやり始めたのは丸藤ではなかろうか。それぐらい印象的な動きであった。

 不知火・改はムーブというより、この技名の響きが好きだ(笑)。「改」というのにビビッときた(笑)。だから、僕は仕事等でデータファイルを作り、それを修正したら「○○・改」と名前を付けて保存している。これは不知火・改にあやかったものである。

 何だか本の紹介というよりは、僕の丸藤への思いを書き綴っているだけになっている。少し本の内容にも触れておく。

 丸藤正道のプロレス生活の大部分を本人が赤裸々に? 語ってくれている。NOAHだけではないが、プロレス界(団体)は山あり谷ありである。それをNOAHの中心で駆け抜けて来た者として語れることは語り尽くしてくれているように感じた。やはり、自分の言葉で語ってくれているものを目にすることができるのはファンにとっては嬉しいものだ。

 そして、丸藤はいろいろと考えてそれをマットで表現しているということもわかった。これは、プロとしてもちろん行っていることなのだとは思うが、言葉で確認することができた。考えてプロレスしているのだな、と。プロフェッショナルたる者は、自分の言葉で語れないといけないのだろう、と思った。

 NOAHファンや丸藤正道ファンはもちろん、プロレスファンにとっては楽しめる一冊となっている。是非とも手に取ってみてください!

方舟の継承者

方舟の継承者

 

ポスト・コロナの学校現場㊱「見えてないものにすがる」

  緊急事態宣言が延長されることとなった。緊急事態宣言が発出されて少しは状況がよくなったようには思うが、まだまだ予断の許さない状況には変わりはないということなのだろう。

 そんな中、東京五輪パラリンピック組織委員会森喜朗会長の失言が連日取り上げられている。森さんの失言は今に始まったことではないのだけど、いつもタイミングが悪い。新型コロナウイルスの影響がなかなか収まらない状況で、オリンピックを開催するかどうかというのは瀬戸際である。

 にもかかわらず、今回の失言。ダメ押しになってしまうかもしれない。それでも強気というか、我関せずというか、東京オリンピックパラリンピックを開催する方向で動いている。

 ここまで準備したのだから開催したい、という思いは理解できる。自分がそういう立場なら、そう考えてしまうだろうな、と思う。また、夏頃だからもう少し落ち着いているのではないだろうか、と考える。さらに、無観客で行い、感染拡大防止の対策を取ればいいだろう、と考える。他にもオリンピック・パラリンピックを開催すれば活気で溢れることになるだろう、と考える。

 以上はあくまで妄想の域を出ないものであるが、ありがちな思考パターンではなかろうか。この妄想から考えられることがある。それは、見えていないものにすがろうとする、ということ。

 夏頃だからもう少し落ち着いているのではないだろうか、と考える。さらに、無観客で行い、感染拡大防止の対策を取ればいいだろう、と考える。他にもオリンピック・パラリンピックを開催すれば活気で溢れることになるだろう、と考える。これは全て希望的観測である。そうなってほしいな、と思っているだけである。

 そう思うのは決して悪くないことである。しかし、その希望的観測を物事を決定する際の材料としてしまってはいけない。そうすることで、ブレーキが利かないようになってしまうだろう。

 見えていないものにすがってしまう、という思考パターンをしてしまいがちである。このことに自覚的でいないといけないのではないだろうか。

 

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ゆとり世代教育論「孤立する『個』」

孤立する「個」

 以前に以下のように記述した。

 ゆとり世代の僕たちを見て、大人たちは「そんな集団から飛び出し、一人で行動するのだ!」

「空気なんて読まずに生きろ!」等としたり顔で語る。

  だけど、僕たちは大人たちが言うような、きちんとした集団になり切れていないように思う。集まっているが、結局「個」が固まっているだけである。

 高度経済成長を果たし、全世帯にテレビや洗濯機等が行き渡るようになる。そうなると内需が飽和状態を迎えることとなる。そこで、内需拡大を目指し、経済政策が次々と行われた。テレビは家族で一台ではなく、一人に一台。自家用車は家族で一台ではなく、夫婦が一台ずつ持つ。こうして、あらゆる物が一人一台主義化していく。そして、携帯電話・スマートフォンはもちろん一人一台を持つ。

 社会が、「集団」をどんどん「個」に解体し、より多くの資本主義的利益を得ようと躍起になり、見事に「集団」は解体されていった。そんな、個人個人に解体された僕たちゆとり世代には、「団結せよ!」というスローガンは、もはや何の意味も持たない。こうして、僕たちは、個人個人で社会にアクセスするシステムを内面化してしまった。身近な集団に属することを避け、自分の好きなエリアだけに属するようになった。

 そんな状況を憂い、昔のようなムラ社会のように「個」を「集団」に戻そう、といった言説が多くなった。だけど、もう昔の状況に戻れないと思う。そんな「昔はよかった」というノスタルジックな言説に説得力は感じられない。

 

「個」と「集団」のバランス

 だけど、「個」が自分の好きなエリアだけに属するようになっている現在の状況も不十分であると考えている。なぜなら、人は一人で生きていけないからである。一人だけで人生の物語を描こうとすることは、もちろん困難なことである。一人だけで人生の物語を描こうと固執する者は、確立された「個」ではなく、取り残された「弧」である。自分だけの力で困難な時には、誰かに頼ればよい。物語を「I」(私)だけで描かず、「We」(私たち)で描けばよい。予測できない未来に立ち向かうためには、他者との協働―自分と他者との相互依存―が必要不可欠である、ということを肚の底から実感しないといけない。そうしないと、ますます孤立を深め、結果として生きる希望を失ってしまう。

 社会学者の山田昌弘は、希望の喪失こそ、最も深刻な問題である、と論じている。

 現在起きている状況の中で最も深刻なのは、この「希望の喪失」なのである。皮肉にも高度成長期を経て、ある程度の裕福な生活が達成されたいま、人々が幸福に生きる上で必要なのは、経済的な要件よりも、心理的な要件である。人間は希望で生きるものだからだ。

更に悪いことに、希望の消滅は、すべての人々を一様に見舞うわけではない。中には、もちろん、将来に希望をもって生活できる人もいる。それは、生まれつき高い能力や資産をもっていて、経済構造変換後のニューエコノミーのなかで、より大きな成功を得られそうな人々である。その一方で、平凡な能力とさしたる資産をもたない多くの人々は、自己責任という名のもとの自由競争を強いられ、その結果、いまと同様の生活を維持するのも不安な状況におかれることになるだろう。つまり、ここに経済格差よりも深刻な、希望の格差が生じるのだ。

 「集団」「個」、共に善きところもあれば、悪いところもある。両者は、どちらだけあればいいというものではなく、相互補完的なものである。だから、「集団」の有限性を理解し、また「個」の有限性を理解する。そして、「集団」と「個」を往還しながら、物事に当たっていく。

 このような態度が必要であり、これからは大切なものになり、結果として僕たちに有益をもたらしてくれるであろう。それを肚の底から実感し、実践に移す。そういう営みを今からでも遅くないので、誰もが自覚して取り組まないといけない。僕はそう感じている。

 

戦略としてのヤンキー化

 最近、多くの論者が、若者が「ヤンキー化」している、と主張していることを知っているだろうか? いや、何も盗んだバイクで走り出している、というわけではない(笑)。「ヤンキー化」は知らなくても、「マイルドヤンキー」という言葉くらいは耳にしたことがあるのではないだろうか。

 最近の若者は地元志向が高まっている、と言われている。都会に出たいという志向性を持たず、進学先や就職先も地元志向。高校・大学に進学した後でも、一緒に遊ぶ仲間は小中学校の友人、つまり地元の仲間であることが少なくない。

 この傾向が就職しても続きます。それどころか、その地元の仲間内でカップルを形成し、結婚しても子どもができても、その地元仲間と一緒にワンボックスカーでドライヴに入ったりバーベキューに行ったりする。要するに、二十代になっても三十代になっても、地元の仲間と強い絆で結ばれ続け、それを拠り所として生き続けるわけである。

 このような特徴が、「ヤンキー化」と呼ばれる現象の顕著なものである。自分たちもこの「ヤンキー化」の特徴を多く持っているな、と感じる。

 さて、どうして若者が「ヤンキー化」しているのだろうか? それは「無様な大人たちを見てきた」に他ならない。

 大人たちは多くの失態を見せてくれた。そこから、「全員が強者になれるわけではない」という当たり前のことを改めて理解することができた。だから、僕たちゆとり世代は、「弱者であっても生きられる」共生型社会の方が有利だろう、という判断を下したのである。つまり、戦略的に「ヤンキー化」しているのである。

 

参考・引用文献

ひとりでは生きられないのも芸のうち (文春文庫)

ひとりでは生きられないのも芸のうち (文春文庫)

  • 作者:内田 樹
  • 発売日: 2011/01/07
  • メディア: 文庫
 

教室の多様性を考える

 毎号楽しみにしている「授業づくりネットワーク」の最新号が発刊された。今回のテーマは「多様性を受けとめる教室」である。現在、学校は多様性で溢れている、と認識されている。

 しかし、その多様性を受けとめることができるか、となるとそうはなっていない。でも、これからの教育を考えていくには、この「多様性」は避けて通れない、と僕は考えている。だから、僕としてはタイムリーな一冊であった。

 特におすすめは巻頭鼎談。インクルーシブ教育とUDについて、いろいろな角度から考えることができるものとなっている。そのような記述を少しになるが引用してみる。

UDというのは要は、「基礎的環境整備」の話だと思うんですね。一人ひとりのニーズに応えていくための基礎的インフラとして、誰もが学びやすい環境をそもそも整えていきましょうということだと思っています。UDのすべての人がっていうのも、結局大事なのは構成員(子ども達)の話で、つまり、1年1組にとってのUDと1年2組にとってのUDはちがくて良いと私は考えています。UDってデザインという言葉が入ってるじゃないですか。それでなんでデザインかと言いますと、その場に応じてデザインをしてないといけないからだと思うんですね。ですから私にとっては、いわゆる「○○スタンダード」って言われているものは、UDではないと思っています。スタンダードがデザインされていないですから。

  最近、学校の中で作られている「○○スタンダード」の違和感なるものをはっきりと言語化されている、と感じた。「○○スタンダード」を作るならば、この指摘について考えた上でないといけないだろう。

 また、井手上漠さんのインタビューが印象深かった。井手上さんは「ジェンダーレスって言われるのはあんまり好きじゃない。本当は井手上漠ですと答えたい」と、語っていた。

 これが多様性の核ではないだろうか。何かしらのカテゴリーで括るのではなく、個人として見る。でも、何も意識していないとカテゴリーに括ろうとしてしまう。そのことに自覚的でありたい、と思った。そして、少しでもカテゴリーに括るのではなく、個人個人として捉え、理解しようとすることを続けたいものだ。

 教室や教育における多様性を考えたい者にとっては必読の一冊となっている。是非とも手に取ってみてほしい。

ポスト・コロナの学校現場㉟「駄目なら変えよう!」

  早いもので2月になりました。年度末が近づいてきているということになります。どの学校においても今年度の取り組み等を総括し、来年度につなげるという時間にしているのではないだろうか。

 今年度は新型コロナウイルスの影響で、例年通りとはいかないところが多くあった。そこで、様々な工夫を施したことだろう。また、例年では行っていたことを止めたものもあるだろう。それらを総括できるようにしたいものだ。

 その時に大切にしたい視点というか態度というものが、題名にもしている「駄目なら変えよう!」というものだ。きっと、今年度は「これは○○の理由で駄目だな(できないな)」と判断したことがたくさんあっただろう。もちろん、この中には惰性で行っていたこともあり、そのようなことを無くすことができたのはよかったのかもしれない。

 しかし、学校において必要であったり、効果があるものまで手放していることにはなっていないだろうか。そのように思うことは一つや二つぐらいあったのではないだろうか。それを本当に無くしてしまってもよいのだろうか?

 「○○の理由で駄目(できない)」のなら、「○○の理由」をクリアできるように変えませんか。その変えるのはやり方であったり、考え方であったりするのだろうけど。でも、考える余地はあるのではないだろうか。

 「これは○○の理由で駄目だな(できないな)」を「駄目なら変えよう!」にする。そうすることで、かなりアクティブに考えることができるようになる。そして、このような態度が、自分の仕事のやりがいや効率を高めてくれるのではないだろうか。これこそが「働き方改革」につながるだろう。

 

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鬼を倒すマンガ

今週のお題「鬼」

 

 節分が近づいてきました。今年の節分は2月2日のようです。何でもこれは124年振りのことのようです。かなりレアなケースということになりそうです。

 ということで、今回は節分が近いということで「鬼」をお題として記事を書いていきます。お題の例として挙がっていたものをそのまま拝借して「鬼を倒すマンガ」について書きます。

 「鬼滅の…」ではありませんよ(笑)。鬼滅についての記事は以前にも書いたので。

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  もう一つの? 鬼が出てくるマンガです。ほら、最近実写化され話題になっている、あのマンガですよ。

 そう、ほとんどの方がピンと来ているように『約束のネバーランド』である。

 簡単に『約束のネバーランド』の内容を紹介する。孤児院で育てられた子どもたちが、様々な理不尽や残酷な出来事を仲間と共に乗り越えていく物語である。その中で「鬼」と呼ぶ生物との対決が軸になってくる。

 『約束のネバーランド』は連載が昨年に終わっている。ジャンプにて連載されていて、同時期に『鬼滅の刃』も連載されていた。ジャンプでは「鬼」が出てくるマンガが二つもあったということになる。

 『約束のネバーランド』は、かなり作り込まれている作品である。サスペンスの部分が凝っており、先の読めない展開が繰り広げられる。だから、どんどん作品に惹き込まれる。あれよあれよと言う間に読み進めることができたぐらいだ。だから、少年マンガと思わずに誰でも楽しめる内容になっているように思う。

 節分が近いということもありますし、もし気になれば是非とも手に取って読んでみてください。

プロレスの厳しさを伝えるのは難しいんですよ。やったものにしかわからない。

プロレスの厳しさを伝えるのは難しいんですよ。やったものにしかわからない。(by前田日明)

 

 プロレスが再ブームを迎えているように感じている。かなり裾野は広がってきているように思う。だからか、あまりプロレスに対しての疑問というか否定的な言葉を聞くことも少なくなった。

 僕が耳にしていないだけで、きっとプロレスに対して疑問や否定的な考えを持っている人はいるだろう。その中で典型的なものが「どうして、ロープに振られたら返ってくるの?」「プロレスって八百長なんでしょう?」ではないだろうか。プロレスファンなら一度や二度は耳にしたことのある言葉であろう。

 このような言葉に、UWFの中心であった前田日明は辟易していたようだ。その言葉をシャットアウトするためにもUWFを設立したのかもしれない。UWFで格闘プロレスを打ち上げていくのだが、決して純プロレスを全否定していたわけではない。だからこそ、今回紹介している言葉が生まれたのだろう。

 この前田日明の言葉はどの職種にも当てはまりそうではある。もちろん、教師という仕事だってそうだ。「教師の厳しさ(難しさ)を伝えるのは難しいんですよ、やったものにしかわからない」と言い換えることができる。

 しかし、教師は他の職種とは違い、けっこうやったこのない者からの言葉を多く受ける。それは、教師という仕事は多くの者が側で見たことがあるから。多くの者は学校という場で教師という仕事を見ている。だから、想像しやすい存在なのだろう。

 身近な存在? というのは悪くないのだが、簡単なものだと思われるのには釈然としない。やったものにしかわからないことはたくさんある。側で見たからといって全てがわかることはないだろう。もちろん、それをわかりやすいものにしたり、伝えていくことは必要なことかもしれない。でも、きっと厳しさを伝えてほしい者なんていないとは思うけど。

 教育現場に向かい風は吹いても、追い風は吹かない状況である。そんな中で、この前田日明の言葉には勇気づけられる。やったものにしかわからないからこそ、この仕事に誇りを持っているのである。

給食は好きですか?

 2016年に女優の天海祐希が主演した「Chef~三ツ星の給食~」というドラマがあった。

 ドラマの内容は、「天海祐希演じる天才三ツ星シェフがトラブルによりレストランをやめさせられ職場を失う。そんな時にテレビの企画で、給食のシェフをやらないかと声をかけられ、仕方なく給食を作ることに決める。そこで給食室の職員たちや子どもたちとすったもんだありながらも、給食づくりに奮闘する。」といったものである。まあ観ていなかったからあんまり知らないのだけど(笑)。

 でも、僕はこのドラマのタイトルをテレビ欄で見つけた時、原作があるだろうな、と思った。それがこの『給食のおにいさん』である。確かめてみると、ドラマに原作はないということであったが。

 この作品では、数多の有名店を渡り歩き、輝かしい受賞歴を誇る若き料理人・佐々目が諸事情により小学校の給食のおにいさんをやらなくてはいけなくなってしまうところから始まる。何だかドラマのイントロダクションと同じような始まりである。

 作者は学校を取り巻く課題や学校給食についてよく調べたのか、現代の学校教育の課題を交えながら話を展開させる。いじめられている子ども、給食費未納の保護者等、多くの問題が取り上げられている。そのような学校教育の視点からも読み込むことができる一冊である。もちろん、それだけでなく、栄養士の上司、クセの強い同僚のおばちゃん調理員等の個性的な登場人物とのやり取りも楽しめる。

 この『給食のおにいさん』は、「進級、卒業、受験、浪人」と、シリーズ化もされている。気になる方は是非、続けて読んでもらいたい。

給食のおにいさん (幻冬舎文庫)

給食のおにいさん (幻冬舎文庫)

 

ポスト・コロナの学校現場㉞「したたかに」

  以前、この「ポスト・コロナの学校現場」の中で、「防衛反応」という題で記事を書きました。内容を簡単に説明すると、「GIGAスクール構想」により学校現場に一人一台端末が導入されるが、それに不安や恐れを抱いている光景が見られるようになっている、ということを書いた。その不安や恐れのようなものに共感しつつ、また二項対立に陥ることなく進めていかにといけない、問うことも書いた。

 このような記事を書いてから、少し月日は経った。新型コロナウイルスはなかなか収まりを見せず、再び緊急事態宣言が発出されることとなった。学校現場では、「GIGAスクール構想」による機器の整備が進んでいる。たぶん、これから各地で研修が行われ、新年度には稼働させることを目指すのであろう。

  実際に稼働となると、温度差が顕著に表れることだろう、と予想される。そして、結局のところ使われないということになってしまうかもしれない。僕は「GIGAスクール構想」にはおおむね肯定的に捉えているが、それはないとは思っているけど、不安は残る。

 ここで、いったんウイルスの話になる。ウイルスは本来、人を殺すことを目的にはしていない。なぜなら、宿主が死んでしまったら、自らも生きていけないから。それでも死者が出てしまっているのが、新型コロナウイルスの怖いところなのだけども。

 このウイルスの基本的な姿勢? のようなものから考えられることは、一人一台端末を使いこなせる者が使うことに抵抗のある者を責めるようなことをしてはいけない、ということ。それは反対も然りである。互いを潰し合うということは避けないといけない。そこはしたたかにやっていかないといけないだろう。このようなことを考えた。

 

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するつもりはないかな

今週のお題ふるさと納税

 

 ふるさと納税のことを、よく耳にするようになった。テレビ等のCMでもふるさと納税が取り上げられている。

 ふるさと納税ってどんなものなのか、と思い調べたことがある。確かにお得だな、と思う。金額によるだろうが、上手にやれば実質2000円で各地の名産品を得ることができる。その名産品も各地の選りすぐりのものばかりである。カタログを眺めているような感覚になり、なかなか楽しい時間である。

 ここまで知っておきながら、記事の題名にしているように「するつもりはないかな」というのが僕の現在のスタンスである。なぜなら、住んでいる地域に税金を納めないということになるから。

 ふるさと納税をすることで、現在住んでいる地域に住民税を納めないということになる。だけど、その地域に住んでいるのだからそこで住民サービスを受ける。それっていいのかな、と引っかかってしまう。

 僕一人分の住民税が納められるか納められないかで、地域の住民サービスの質が著しく向上・低下することはないだろう。それに、僕が住んでいる地域だってふるさと納税を通して、本来なら納められない金額を得ているだろう。だから、僕一人がふるさと納税をして住民税を納めないということで、大きな影響はないだろう。

 というのは理解しているのだけど、やっぱり引っかかってしまい、ふるさと納税をしようとは思えない。真面目すぎるというか、割り切れないというか、面倒なことになっているというか…。それと、ただただ手続きが面倒くさいというのはある(苦笑)。きっとそんなに難しくないのだろうけど。

 というわけで、かなり後ろ向きな内容となってしまいました。きっと、今回のお題的にはポジティブなことを狙っていただろう、と思う。まあ、中にはこんな記事があったっていいのではないだろうか、と開き直っておく(笑)。

教育YouTuberを通して考える学校教育②

 以前、「教育YouTuberを通して考える学校教育」と題して、教育YouTuberと教師の違いを通して、学校教育の特徴を書き綴った。

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  そこで、僕として結論づけたのが、学校教育(教師)では具体的な子どもと対面している、授業以外のこともしている、ということ。だから、この二つのことを学校教育では簡単に手放してはいけない、と思う。また、この二つのことの意味というものも考える必要がある、と思う。

 ということで、この二つのことを問いとして、時間はかかるし寄り道すると思うけど、うんうんと考えてみることにする。

 今回はこれだけです。すいません。言語化していないと日々の生活の中で忘れ去ってしまうかもしれないので、ここで言語化することにしました。どのような考えがまとまるか、自分自身が一番楽しみにしている。

自殺という現象を考える

 少し前から自分なりに「自殺予防」について考えている。それは、日本における自殺者数や自殺率の事実を知ったからである。そして、その事実は僕に危機感を覚えさせるようなものであった。子どもの前に立つ機会の多い僕にとっては重要な課題の一つである、と認識するようになっている。このような理由で、自分なりに「自殺予防」について考えている。

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  もう少し自分なりに「自殺」という現象について考えを深めてみたい、と思い手に取ってみた二冊を紹介する。

 一冊目は『生き心地の良い町――この自殺率の低さには理由がある』。

 この本は、自殺率の低い徳島県海部町は、なぜ自殺率が低くいのかということを丹念に調べ、書かれたものである。自殺予防因子はどのようなものか、ということが明らかにされることとなる。

 詳しい内容は本書に譲るが、僕が印象に残った記述を引用する。

生きていくのがつらい、生きづらさの嵩じた先に自殺があるとすれば、自殺の少ない社会は「生き心地のよい」社会であると言える。自殺対策とはすなわち、人間にとって生き心地のよい世界をどう造り上げるかという、試行錯誤そのものである。その第一歩をどちらへ向かって踏み出すか、ひとりひとりが自分自身に問いかけることから始まる。

「いかにしてこの世から自殺を減らすか」という命題には、頭を抱えてしまう人もいるかもしれないが、「どのような世界で生きたいと思うか」という問いかけに対しては、自分なりの答えを必ず出せるはずである。

  自殺予防や自殺を減らす、と聞くと「どうしたらいいのだろう?」と確かに思う。しかし、「どのような世界で生きたいと思うだろうか?」という問いにすると、自分なりの答えを導き出せるように思う。これを考えることから「自殺予防」を始められる気がして、少し楽な気持ちになった。

 二冊目は『自傷・自殺する子どもたち』。

 自傷・自殺する子どもたち側から、自傷・自殺という行為を見るという姿勢が徹底されている。もちろん、それに対峙する大人について言及されている箇所もある。

 例によって詳しい内容は本書に譲るが、僕が印象に残った記述を引用する。

私がいう、「信頼できる大人」とは、次の2つの条件を満たす人のことです。1つは、子どもの問題行動をいきなり叱りつける前に、まずは冷静に理由を聞こうとする姿勢があることです。支援に役立つのは、表面化した行動に関する善悪の判断ではなく、そうした行動をせざるを得なかった背景事情に関する情報だからです。つまり、信頼できる大人は情報収集が上手です。

もう1つは、問題をけっして1人で抱え込まず、気軽に相談できる専門家やそのほかの援助者のネットワークをもっている、ということです。つまり、信頼できる大人は孤立しておらず、自傷する子どもとは違って、高い援助希求能力をもっています。

もしも子どもの周囲に、2つの条件を満たす大人が少し増えれば、それだけでも救われる子どもはずいぶんといるはずだ、と私は信じています。

  自殺予防を考えると、子どもたちに何をするかということを考えがちである。それは間違っていることではない。しかし、その前に自分(大人)の在り方を省みる必要性があることに気づかされた。「信頼できる大人になる」ということは言うのは簡単であるが、かなり難しいことである。でも、だからと言ってそこで二の足を踏んでいる時間もない。自分から一歩踏み出せることはあるはずだ。

 いかがだったでしょうか。自殺予防を考えるには必読の二冊を紹介したつもりである。少しでも興味を持たれたのなら、手に取ってみることを強くお勧めしたいです。

生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由(わけ)がある
 
自傷・自殺する子どもたち

自傷・自殺する子どもたち

 

ポスト・コロナの学校現場㉝「不安をケアする」

  前回の「ポスト・コロナの学校現場」の記事の中で、以下のようなことを書いた。

不安な日々を過ごしているであろう子どもたちをケアするということも忘れてはいけないだろう。

  書いたものを見返して思ったのだが、なかなかいいことを書いている、と(笑)。

 緊急事態宣言は二度目となるし、新型コロナウイルスの影響を受けた生活にも慣れてきている。確かに目に見えて混乱している様子はない。でも、それも一時のことかもしれない。また、目に見える形になっていないだけ、なのかもしれない。だからこそ、前回に書いたように「不安をケアする」という視点は大切になるだろう。

 思い返してみると、マスクやトイレットペーパーの買い占め、感染者への偏見・差別、必要以上に政府等の公的機関への罵詈雑言という現象が起こった。これらは現在もある。そして、これらが起こる原因が「不安」である。

 自分自身の中に芽生えてしまった不安というものからは、なかなか逃れることができない。むしろ、その不安が心に巣くう。やがて、不安に絡み取られてしまう。そうなると、上記したような「人間らしさ」から遠い言動を行ってしまう。

 現在は新型コロナウイルスを防ぐために、三密の回避、マスクの着用等が定着してきている。パーフェクトとまではいかないが、ある程度の安全は確保できる。しかし、安心感はまだ得られていない。いつ何時どうなってしまうか、という不安は付きまとう。もちろん、それは教師だって大人だってそう。みんな不安な中にいる状態だ。

 だからこそ、繰り返しになってしまうが「不安をケアする」という視点は忘れずに大切にしたい。安全に努めているから大丈夫だろう、と過信しないように気をつけなければ。

 

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「話し合い」指導の必要性

 国語科は大きく「話す・聞く」「書く」「読む」という領域にわかれる。そして、どれかと言うと「読む」ことに力を入れ過ぎてしまう。個人的には、「話す・聞く」領域の学習を疎かにしているように感じていた。そこで、「話す・聞く」の指導を自分なりに考えていきたい、と思うようになった。

 そこで、手に取ってみたのが今回紹介する一冊。

 社会は多様化してきている、という主張をよく耳にするようになった。そのような社会状況の中でコミュニケーションを図らないといけない。だから、お互いわかり合えないかもしれないがコミュニケーションを図り、できるだけ合意することを追究しないといけない。だからこそ、学校教育の中で「話し合い」指導をする必要がある。

 そのためには教材研究が必要になるし、子どもたちへの指導する順番等を考えないといけない。その助けになる一冊となっている。具体的な教材研究の手順等が掲載されており、実際に「話し合い」指導に取り組もうと考えている者にとっては必読の一冊となっている。

 また、著者は「話す・聞く」についての実践を多く提案されている。「話す・聞く」の授業を考える際に参考にしてみることをおすすめしたい。