小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

歓声とブーイングは、ベクトルは違っても客が熱くなってるって意味では一緒だって気づきましたね。

歓声とブーイングは、ベクトルは違っても客が熱くなってるって意味では一緒だって気づきましたね。(by真壁刀義)

 

 スポーツでは歓声だけでなく、時にはブーイングが巻き起こることがある。「ブー」と唸るだけでなく、指笛を鳴らす、手の親指を立てて逆さまにすることもある(サムズダウン)。

 日本では野次、大相撲での座布団投げがよく見られる。ブーイングを行うことで、選手・チームのプレーや試合経過等への不満、審判のプレーに対する判断に対しての不服などを示している。

 しかし、プロレスにおけるブーイングの意味合いは他のスポーツとは少し異なる。プロレスにおいてはブーイングを送ることが、ヒール選手に対する賛辞になっていることがある。もちろん、上記のように不服を表すこともあるが。ヒールレスラーにとってはこのブーイングの大きさというものが一つのバロメーターになっている。

 そのことを、今ではスイーツレスラーとも知られている真壁刀義は語っている。真壁はかつてはヒールレスラーとしてリングに立っていた。その時には歓声よりブーイングを浴びていた。でも、レスラーだって人間。歓声が欲しくなる。でも、そこにこだわってしまってはいけない。だからこそ、真壁は「気づいた」と、語っているのだ。

 さて、視点を教育の場面に移してみる。

 子どもからのブーイングはある。例えば、「宿題多い!」「先生、そのファッションセンスは…」「どうして怒られないといけないの?」等、様々である。

 現代の子どもたちは、「傷つけて近づく」というコミュニケーションを取る。「先生ってファッションセンスないよね」「先生ってイケメンとか本気で言っているの」等々(笑)。そこに、正面からぶつかっていく必要はない(だが、イライラしてしまうことも多いが)。ブーイングの中には本当に不満を表しているものもあると思うが、ほとんどは教師に注目してほしいという思いが込められている、と思う。

 それに、ブーイングをなくそうなくそうと思っても、それはこちらから「やめて!」と言ったところでなくなるわけではない。だから、ブーイングをもらうぐらいがちょうどよいと思いたい(笑)。ブーイングをもらっているうちが華かもしれない。

 それに、相手の技(ブーイング)を食らうことを極端に嫌う人間は「プロレスラー」(=教師)とは言えない、と思っている。

4月までに読みたい本【授業編】PART3

 先週の記事に続いて、今回は授業編についての記事を書くことにします。第一弾・第二弾の記事も是非とも参照してください。

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 ⑨田中博史『田中博史の楽しくて力がつく算数授業55の知恵』文溪堂

 田中先生は温かい人です。もちろん、何となくですが、そのように感じています。それは、田中先生の「受け」が関係しているように思っている。子どもの発表の受け方、子どもの間違いの受け方た等。もちろん、教材研究や課題提示や発問等の「攻め」も大切だと思いますが、それよりも「受け」が大切なのかもしれない。

 「わからない子に、わからないと言わせる」「あてられたら困る人? と問いかける」「この子の気持ちがわからない? を合い言葉にする」等、目から鱗の内容もたくさんあります。攻めだけではなく受けを考えることが授業づくりには大切のように思います。

 

⑩土作彰『学級づくりの3D理論』明治図書

 タイトルが「学級づくり」となっているが、主に授業についてのことが書かれた一冊。「授業づくりは学級づくり」という言葉があるように、授業と学級経営は密接な関係である。それをわかりやすく説明してくれている。

 土作先生が提唱する3D理論とは「授業づくりにおける重要な3要素=教える・Y繋げる・育てる」のことである。この3つの要素というか視点を持っておくことで、授業づくりの意識が変わる。

 土作先生のミニネタとあわせて知っておきたい考えである。

コロナ禍の学校現場

 コロナ禍の学校現場での様子、僕が考えたことや感じたことを書き留めておくように、「臨時休校の学校現場」「ポスト・コロナの学校現場」と題し、記事をいくつか書いてきた。それが約一年を経過したので、まとめを作り、連載を終えたい。

 コロナ禍という状況は、まだまだ続きそうではある。しかし、そこにこだわってうだうだしているの時期は過ぎつつあるように感じている。ということで、一区切りとしたい、と思い立ったのである。

 このまとめを機に、自分自身も「学びを止めない」ように考えや実践を進めていきたい。

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ポスト・コロナの学校現場まとめ②

 

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ポスト・コロナの学校現場まとめ①

 

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祝日って変わるのですね

今週のお題「祝日なのに……」

 

 昨年と今年は、東京オリンピックパラリンピックが予定されているということで「海の日」「山の日」が移動している。そして、昨年から「体育の日」が「スポーツの日」と名前を変えている。
 祝日が変わるというのは、あまり考えたことがなかっただけで、意外とあるようだ。
そして、時代は令和になり久しい。もう三年が経とうとしている。令和になり、「天皇誕生日」も変わった。
 平成では、12月23日が天皇誕生日であった。令和では、2月23日が天皇誕生日である。天皇の代替わりと共に、天皇誕生日の日も変わるとは思っていなかった。
だから、2019年の12月に驚いた。12月23日が休みじゃない。この日辺りは、学校では二学期の終業式の頃である。この日が休みだから前の日が終業式、この日が休みだから仕事の追い込み日として使える等々。12月23日の休みに助けられてきた気になっていた。しかし、休みではない。ということで、驚いたということを今でも鮮明に覚えている。
 そこから二年が経ち、驚きはしなくなったが、何となく残念な思いは未だにある。でも、2月に祝日が二つもありラッキー、と思っているところもあるのだけど(笑)。

ポスト・コロナの学校現場㊶「学校(教室)に集まる意味」

  前回は、子どもたちを学校(教室)に集める意味について書いてみた。どちらかと言うと、教師側からの目線で書いたものになった。今回は、視点を子どもたち側に移し、「子どもたちが学校(教室)に集まる意味」について書いてみる。

 僕の考える子どもたちが学校(教室)に集まる意味は三つある。
 一つは「つながりをつくる」という意味。
 以前にこの連載でも「ふれ合いを保障する」という題で記事を書いたように、子どもたち同士の関わりを大切にしたい、と思っている。
 僕は、教師として、子どもたちに毎日毎日教育活動を施している。そこで忘れてはならないのは、目の前にいる子どもたちが同じ地域に住む同い年の集団であるということ。つまり、目の前にいる子どもたちは、同一地域で生きていくことになる。もちろん、ずっとそこで生きる者は多くはないだろう。
 しかしそうだとしても、同じ時期に同じ時間を過ごす者とできる「つながり」は、強力なものになる可能性がある。そう考えると「つながりをつくる」ということには大きな意味がある。
 二つは「他律から始められる」という意味。
 教育の目的を、僕は「自立」である、と考えている。これについて述べていると長くなってしまうので割愛する。自立に向かうためには、学びを通して「自分はできる」という感覚を抱くこと、先ほど述べたようなつながりをつくることが必要である、と考えている。だから、学校(教室)に集まり集団で学ぶことに意義がある。
 しかし、現在の状況では、個別で学ぶことも可能であるし、リスクを下げるために集まらないというのも認められる。そうであっても、集団で学ぶことに意義がある。それは「他律から始められる」からだ。集団で学ぶことで、他者との出会いがあり、他者との交流がある。その他者との関わりを通し、自分自身を見つめていく。大雑把に言うと「他律」ということではないだろうか。もちろん、「自律」し「自立」する方がいいのだが、そんな簡単にはいかない。だから、始まりは「他律」でいいのではないだろうか。そのためには学校(教室)に集まらないといけない。
 三つは「時間を共有する」という意味。
 社会は多様化している。そんな多様化の風を目いっぱい受けているのは、僕たち大人だけではなく、子どもたちもそうだ。そんな多様化の様子を「島宇宙化している」と、表現される。つまり、一人ひとりが独立しており、結びつきが希薄ということ。これはこれで悪くはない。
 そんな多様化した時代において、学校(教室)での時間は数少ない共有事項の一つである。学校(教室)で同じ時間を過ごした者と話すと、最後は決まって学校(教室)で過ごした時のことで終わる。それぐらい時間を共有するということには力がある。
 同じ時間を過ごしたとしてもわかり合えないことだってある。そうとはわかりつつも、同じ時間を共有したからこそ、同じように感じ、同じような思いをしていると思い込むことができる。この共同幻想とでも言えるようなことは、案外悪くないのだ、と思っている。
 以上が、僕の考える「子どもたちが学校(教室)に集まる意味」である。

 

【過去記事】

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4月までに読みたい本【学級経営編】PART3

  毎年恒例になってきつつあります「4月までに読みたい本」シリーズの第三弾です。第一弾・第二弾の記事も是非とも参照してください。

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⑨堀裕嗣『学級経営10の原理・100の原則』学事出版

 10原理・100原則シリーズと呼ばれるものの一冊。学級経営で考えないといけないことの全体像が提示されている内容となっている。ここまで細かく考えないといけないのか、と驚くほどである。

 著者の堀先生は「失敗が許されない」という前提で学級経営を考えることを提案されている。いろいろなことを付け加えることを思いつくのは悪くない。しかし、「失敗が許されない」からこそ細やかに考えておく必要性は高いはずだ。

学級経営10の原理・100の原則―困難な毎日を乗り切る110のメソッド

学級経営10の原理・100の原則―困難な毎日を乗り切る110のメソッド

  • 作者:堀 裕嗣
  • 発売日: 2011/03/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

⑩金大竜『ワクワクを生み出す!あたらしい教室のはじめかた』学陽書房

 金先生は、常に自分の実践や考え方を更新する作業を行っている。この本の中でも、金先生が悩みながらも前進している姿勢が伝わってくる。

 学級開きや新年度初めの教室について考えられる内容となっている。読んで損なしの一冊である。

ワクワクを生み出す!  あたらしい教室のはじめかた

ワクワクを生み出す! あたらしい教室のはじめかた

  • 作者:金 大竜
  • 発売日: 2018/02/17
  • メディア: 単行本
 

  どれか一冊でも手に取ってもらいたい。

さらば! ウォークマン

今週のお題「〇〇からの卒業」

 

 今年に入って、ウォークマンから卒業した。正式に言うと、ポータブルプレーヤーとなるだろうか。
 そこに音楽を入れて、通勤時等には聴くようにしていた。しかし、なかなか外出もできず、また時間もなく昔からの曲を繰り返し聴くということが続いていた。そうしていると「何だか飽きたなー」という思いが強くなっていた。
 そこで、ふと思い立ちラジオを聴くことにしてみた。FM局でしている音楽チャンネルを聴いてみた。そうすると、これがなかなか面白い。自分の知らない曲や聴かないであろう曲を耳にする。また、DJの軽快なトークやその時間帯での企画やリスナーの投稿を耳にする。これもなかなか面白い。「いやいや」とツッコミながら聴いている(笑)。一番のツッコミどころはニュース。「そんなニュース、誰が興味あるの?」と、思うようなものがちらほらある。まあ、それも面白い。
 このように毎日のように聴いていると、ラジオを聴くということが当たり前のようになってきている。もうウォークマンには戻らないというか、戻れないだろうな、と思っている。ずいぶんと長い間、このウォークマンは使ったのだけど。
 この卒業シーズンにはっきりと宣言しておこう。「ウォークマンから卒業します! 今までありがとうございました!」と。

流れに乗ってみる

 学校現場では、「GIGAスクール構想」による機器の整備が進んでいる。各地で研修が行われ、新年度には本格的に稼働させることが目指されているであろう。かなりスピーディーに計画は進んでいる。

 しかし、不安がないわけではない。いや、本当に使いこなせるのだろうか、どうなるだろうかという思いは付きまとう。実際に触ってみるのが一番ではあるのだが、なかなかそれは難しい。

 そうは言いつつも、少しでも理解しておこう、と思い二冊の本を手に取ってみた。

 一冊目は、『できるGoogle for Education コンプリートガイド 導入・運用・実践編』。

 かなり細かいことまで書かれている内容であった。本当に細かく、これを読めば一通りのアプリは使えるだろう、と思った。ただ細かく書かれているので、具体的な活用例は少なめであった。実際にアプリ等を触って使い方を理解しようとする者にとっては物足りない内容であるように思った。

 二冊目は、『今すぐ使える!Google for Education』。

 基本的な使い方や活用法について知ることができる内容であった。学校現場での活用例が豊富で、具体的な実践が思い描きやすくなっている。

 この二冊あれば充分とはならないとは思うが、手元にあれば心強い二冊には間違いない。「GIGAスクール構想」について頭を悩ませている者にとっては読んで損なしである。

 繰り返しになってしまうが、やっぱり触ってみるのが一番だとは思うのだけど。

ポスト・コロナの学校現場㊵「学校(教室)に集める意味」

   新型コロナウイルスの影響により、三密を避けるということが徹底されている。

 しかし、学校現場はこの三密が守られているとは決して言えない。いや、三密を避けるために努力していないわけではない。むしろ、かなり努力しているつもりではある。それでも三密を避けるのは難しい状況である。教室の中を見渡すと、三密を避けるのは物理的に難しい、と思う。それでもできる限りのことはするのですが。

 このような状況でも、学校(教室)に子どもたちを集めているのならば、それ相応の意味があるはずだ。それ相応の意味がないのであれば(教師が意味を自覚していないのであれば)、学校(教室)に集めるということはリスクにしかならない。
 そこで、僕が考える子どもたちを学校(教室)に集める意味・集まる意味を書き出してみる。今回は、子どもたちを学校(教室)に集める意味について書いてみる。
 僕が考える子どもたちを学校(教室)に集める意味は三つある。
 一つは「子どもたちを社会化する」という意味。
 学校(教室)で行われることには、教育的意図がある(無いと心許ない)。なぜなら、学校現場では、理想状態から子どもたちの姿を見て「不備・非力」な点があれば、それを「指導対象」とするから。その指導・支援を通し、子どもたちが社会に適応することのできるように育てていく(社会化)。
 もちろん、子どもたちの思いや願いを受け入れようとする。しかし、何が何でも受容し、子どもたちの思いや願いに沿うべきだ、と考えていない。なぜなら、本人の考え方・論理が、不適切なものであるならば、その考え方・論理を、整理・修正していくことも必要な時があるから。そうしないと、子どもたちが「生きにくいまま」で、これからも生きていくことになってしまうかもしれない。
 だから、子どもたちを学校(教室)に集めることは「子どもたちを社会化する」という意味がある。
 二つは「格差を縮める」という意味。
 子どもたちを学校(教室)に集めるということをせず、それぞれ一人ひとりが選択・決定し、教育を受けることにする。そうすれば、どうなるだろうか。あっさりと格差が如実に表れるだろう。持てる者はより望むように、持てない者は望みは叶わないようになっていくだろう。つまり、格差が拡大することになる。
 できあがった格差により、学校(教室)へ行くということを断念せざるを得ないことも起こるであろう。そうなると格差はさらに拡大していく。かつては「今日も机にあの子がいない」という状況があった。しかし、そのような状況をなくすために、学制等の教育政策がなされてきたのである。
 このような歴史を引き継ぎつつ、子ども間に存在する格差を縮めることを意識しながら教育を為していかなければならないだろう。
 三つは「レスパイト」という意味。
 昨年度末・今年度初めに、学校が一斉休校となった。その時、一番困ったのは保護者ではないだろうか。今まで日中、子どもが学校に行っていたのに家庭にいることになる。そうなると子どもを放っておいて仕事へ行くというのは難しくなる。子どもを家にいさせるにしても不安や心配は尽きない。そして、いつも以上に負担が増える。このような状況は全国的に見られた光景であった。
 ここからわかることは、子どもたちを学校(教室)に集めることで、レスパイトと機能しているということ。保護者にとっては、休息のために学校へ行かせているだけではないが。それでも、教師という大人に見守られている状況が保証されているなら、いろいろな不安や心配は軽減されるだろう。
 このように、学校には福祉的な側面を持ち合わせているということを、教育に関わるものたちは自覚したい。
 以上が、僕の考える子どもたちを学校(教室)に集める意味である。次回は、子どもたちが学校(教室)に集まる意味について書きたい。

 

【過去記事】

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つらい季節

今週のお題「花粉」

 

 花粉の季節ですね。つらい人にとっては本当につらい季節です。ええ、僕もご多分に漏れずつらいです。

 今は目ですかね、一番つらいのは。何だかショボショボします。朝起きた時は、ペキペキになっております。目薬をさしてはいるのですが、焼け石に水のような状態です。
でも、鼻や喉は今のところあまり被害はでていません。これもマスクを常時つけているからだ、と思っています。むしろ、マスクを着用することが推奨されているぐらいだ。花粉症持ちにとっては、願ったり叶ったりの状況である。まあ、現在の状況が望ましいものではないのだけども。
 そうとは言いつつも、マスクの効果というのは高いのだな、と改めて実感する。花粉の季節にもあまりマスクをつけるという習慣はなかった。しかし、 マスクを着用するようになり、花粉症はマシになっている。今のところ、目だけで済んでいるぐらいだし。目は残念ながら守りにくい所でもあるし。
 災い転じて福となす、ということにしましょうか。でも、鼻や喉は時間の問題のような気がするけども…。

ゆとり世代教育論「自尊感情を揺さぶる社会」

自尊感情を揺さぶる社会

 「自尊感情」とは心理学用語Self Esteem の訳語として定着した概念である。一般的には、「自己肯定感」「自己存在感」「自己効力感」等の語などと、ほぼ同じ意味合いで用いられている。

 そして、日本の若者の自尊感情は、ご存知の通り、諸外国の若者に比べて低い。このような状況は、もう物珍しさもなくってきつつある。「日本の若者の自尊感情は、諸外国の若者に比べて低い」と聞いても、驚きもしない。

 ずいぶん年齢を重ねてきたつもりであるが、まだまだ若者の部類である。だから、自尊感情の低さは、耳にタコができる程、聞いてきている。

 そして、この話に付随してくる、大人たちの言葉もよく耳にしている。「もっと自分に自信を持って」というような励ましめいた言葉。「だから、今時の若い者は頼りにならない」というような恨めしそうな言葉。どちらも、ありがたく頂戴しているが、どちらの言葉も、僕たち若者の自尊感情を高めるためのものとはなっていない。

 このような言葉を投げかけてくる者たちは「若者の自尊感情は、叱咤激励されればされるほど上がるものだ」と、楽観しているのだろう。わが身を顧みれば、そんなことあるはずがないということは骨身にしみてわかるはずなのに…。

 

適度な自尊感情

 前節では、今までのように社会についての論考になってしまっていた。ここでもう一度、自尊感情の話に立ち戻ろう。

 自分のことを自分で捉えるという概念には、「セルフ・エスティーム」という言葉をあてることが一般的である。「セルフ・エスティーム」は、日本語では「自尊感情」の他に、「自尊心」「自負心」「自己評価」「自己尊重」「自己価値」「自己肯定感」等、さまざまな語訳がある。

 この中の「自尊感情」は、必ずしも良い響きだけを持つわけではなく、自分に対する感情を中立的に表現して捉えられている。つまり、「セルフ・エスティーム」という概念は、「自信を持ちゆったりと構えること」や、「自重する」という、いわゆるポジティブな思考を指すだけでなく、ネガティブな側面も包括した概念に近いのである。

 自尊感情は、ポジティブな思考を指すだけでなく、ネガティブな側面も包括した概念に近い、と考える。そうすると、次の疑問は「自尊感情は、どの程度もつことができるとよいのか?」ということだ。

 自尊感情が低過ぎる、ということは、やはり問題だろう。自尊感情が低過ぎるというと、主体的に行動することは難しい。また、何事においても不安感を持つことにもなる。極端だが、自尊感情が低過ぎると、自分で自分の命を奪う、ということも選択してしまうかもしれない。

 一方で、自尊感情が高過ぎる、ということも、問題だろう。自尊感情が高過ぎるというと、過度な自己愛による防衛的な言動が生まれやすい。自己を防衛しようとし、周囲への攻撃性が高まり、トラブルが頻発することにもなる。

 さて、ここまでは考えられるのだが、「自尊感情は、どの程度もつことができるとよいのか?」という問いにははっきりと答えを見出すことは、今現在ではできない。

 だけど、この「自尊感情」ということを考えることは、僕たち「ゆとり世代」のことはもちろん、これからの教育・社会を考えることにつながる、と確信している。

 

参考・引用文献

 

自殺予防を実践する

 このブログでも記事にしたのだが、自分なりに「自殺予防」について考えを進めている(よければ過去記事を参照してください)。
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  考えているだけでなく、実践に移すということが次のステップのように思う。そこで、実践を見据え、実践書を読み、実践を構想してみた。そこで、読んでみたいくつかの本を紹介する。

 一冊目は、『学校における自殺予防教育のすすめ方』というもの。

 北九州市での自殺予防の取り組みをまとめた一冊。実際に行われているものであるので、大いに参考になる。

 僕はこの本に出てくる言葉がとても印象に残っている。それが以下のもの。

生きていれば、だれにでもこころが苦しいときがある

  すごくシンプルに、誰もが陥る状況を表してくれている言葉だ、と感じた。

 二冊目は、『学校現場から発信する子どもの自殺予防ガイドブック』というもの。

 著者の阪中順子先生は、以前より精力的に自殺予防に取り組んでおられる方である。学校における自殺予防の第一人者といっても過言ではない存在。

 そんな阪中先生の取り組みを、理論から実践まで余すところなく読むことのできる一冊となっている。学術書の部類に入るだろう。だから、少し読むのには骨が折れる。しかし、自殺予防に取り組む際には必読の一冊となっている。

 三冊目は、『学校における自殺予防教育プログラムGRIP』というもの。

 自殺予防に特化したプログラムを開発され、その実際を読むことができる。この一冊が手元にあれば追試することは可能である。また、ワークシート等の資料も豊富であり、ダウンロードも可能である。

 ただ、これだけの時間を割くことは難しのでは、と思う。しかし、自殺予防に取り組む必要性には変わらない。一部でもいいから実施できるよう、それぞれの現場でアレンジをするとよいだろう。

 四冊目は、『教師にできる自殺予防――子どものSOSを見逃さない』というもの。

 2020年に発刊されたものであり、最新のデータが用いられている。また、コロナ禍についても言及され、今まさに読むべき一冊となっている。

 教師にできるというタイトル通り、教師ができる、教師だからこそできる、教師だからこそしないといけない自殺予防について考えることのできる内容となっている。

 著者の髙橋聡美先生は以下のように強く語っておられる。

子どもの自殺を減らそうとする時に、子どもたちに変わることを求める前に、私たち大人が子どもたちへの接し方を変え、身近にあるSOSを受けとめるスキルを身につけなければならないのだと思います。

大人たちが変わらなければ、子どもの自殺は減らない。逆に言うと、私たち大人が変われば子どもの自殺を減らすことができるのです。

  これは、どの自殺予防の本を読んでも目にするフレーズである。でも、何回も目にして肝に銘じておかないといけないことでもあるように思う。

 いかがだっただろうか。自殺予防を実践する際に読んでおきたいものを紹介した。ここまできたら実践に移りたい。そんな報告をできるよう進めていきたい。

 

 

学校現場から発信する子どもの自殺予防ガイドブック―いのちの危機と向き合って
 
教師にできる自殺予防――子どものSOSを見逃さない

教師にできる自殺予防――子どものSOSを見逃さない

  • 作者:髙橋聡美
  • 発売日: 2020/12/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

明日は雛祭り

今週のお題「雛祭り」

 

 雛祭りという行事に縁のない人生を歩んできた。正直に言うと、雛祭りはひなあられを食べ、「今日も楽しい雛祭り」と歌うものとぐらいしか認識はない。

 ということで、あまり知らない雛祭りについてWikipediaで調べてみる。
 何でも平安時代辺りからこの風習は始まったらしい。その頃は子どもが小さいうちに亡くなってしまうことがよくあり、厄除けのためにこのような風習ができあがったようだ。だから、流し雛のような行事を今でも耳にするのはこの名残なのだろう。そして、時代は進み江戸時代頃から、現在のような雛人形を飾って観賞するという風習になったようだ。
 なるほどなるほど、やはり何事にも歴史があるのだな、と思った。そこには親の切なる願いが込められているというのも改めてわかった。
 しかし、このような願いや思いは子どもに伝わらないよな。子どもとしては、いつもより華やか、おいしいものが食べられるぐらいの感覚しか抱かないだろう。僕がそうだったから。だからこそ、子どもなのである。
 「親の心子知らず」とはよくできた言葉だな、と感じた。少しは大人になった今では、このように感じている。まあ、でもだからと言って今更ながら親に感謝とかは照れくさいなのだけど(笑)。
 言葉や思いは伝わっていないかもしれないが、形(雛人形)があればいつか何かしらが伝わるのではないか。だから、現在でも雛祭り等の行事が伝わっているのだろうな、と思った。